『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

綴方理論研究会 12月例会の報告

綴方理論研究会 12月例会の報告

■12月例会(2010.12.23)報告―田中定幸  司会・榎本  記録・工藤

 参加:榎本豊 田中定幸 早川恒敬 工藤哲 中山豊子 乙部武志

◇講義 とつおいつ その36 
「デューイ教育思想と生活綴方」を読む その2
                         乙部 武志  

 実はこの前の出だしのところで、田中さんの詳しい記録があるからそれを読んでもらえばそれでよろしいのですけれども、国分一太郎研究というのが、例の天皇下血の頃から、実は、どんどんどんどんすたれてしまってといいますか。あの頃からというのはどういう意味かというと、あの頃はまだ、国分一太郎は、大学関係者たちにも関心の的であったわけですが、だんだんだんだん忘れられた存在になっていく。それは、もう没後20数年たっていますからね。85年になくなっていますので、25年かな、それくらいたっている。

 その後、どういう学者、研究者が研究しているかということを、ぼくらはよく知らなかったのですが、たまたま今年の東根の研究会に申込みをしてくださった方の中に、この『デューイの教育思想と生活綴方』という論文を書いた阿部貴洋という方がいた。この方とは、2回ほど電話で話をしたのですけれども、研究会が終わってから分かったことですが、東北大学大学院で、教育学研究科研究員をしているということが分かったわけです。

 論文の中に、このように「国分一太郎の論考を手がかりに」というサブタイトルがついていたということから、大変興味をそそられて読んだわけです。

 この論文の出どころは、こういう本(『日本のデューイ研究と21世紀の課題』)でして、この阿部さんの論考というのは、この中のほんの一部分、小論文といっていいと思います。

 デューイについては、この前、話しましたが、たいらに言って、デューイ研究がよみがえっていると言っていいでしょう。前回、ぼくが話したものの中で、デューイという人の教育思想、教育学というものが、大体は、世界の教育学というようなものを学んだ人は分かるように、ペスタロッチが出てくるだとか、ナトルプが出てくるだとか、さかのぼればもっと何人かいるわけですけれども、とにかく生活綴方の方の関係の人でも、生活綴方の関係といっていいかどうか分からないけれども、大村はまさんという人、あの方なんかの場合も、賞としては、ペスタロッチ賞をもらっているような、そういう方でもって、ペスタロッチというのは、どうしても通過しなればならない人であったわけです。そのペスタロッチが、必ずしも、いわゆる日本流にいう封建的な時代の人ではなくって、日本の教育の何歩も先に行っているような人で、ぼくが使った用語で言えば、労作(ろうさく)教育、「ろうさ」というふうに読む場合もあるようですけれども、労作教育をした人で、やはり、概念的なことを子どもたちに教えていくということよりは、いわゆる実学として、自分たちが労働しながら(=労作をしながら)学んでいくという考え方に立っていたわけです。そういうことが、教育史の中には、位置づけられている。それをさらに進めていったのがデューイ、というふうに言っていいんじゃないかと思うのです。で、ぼくの引いたものの本は、デューイ研究というのが、日本の教育学にとっては非常に大事なものだったわけですから、いろんな人が、デューイの全集などを翻訳してるんですが、ぼくは、それこそぼくの生まれた年ぐらいに出たものを、この前はちょっとご紹介いたしました。その後、帆足理一郎という人が翻訳したものでもって、デューイ研究がたくさん出たわけですけども、我々が忘れられないのは、戦後の教育の中で、国分一太郎の発音でいうと、コースオブスタディ(course of study)といいますが、「ディ」と発音したらいいのか、「デー」と発音したらいいのか、大変まよって発音したことを覚えていますけれども、あの「学習指導要領」という名前のものを、それこそ英語のままで、「コースオブスタディ」というようにいうのが普通だったのですね、戦後は。その中のキーワードみたいなものが、ペスタロッチの労作教育の流れをくむ「なすことによって学ぶ(leaning by doing)」ということで、leaningは、学ぶ。doingは、自分で実行する、仕事するというdoingですね。で、時代の流れの中で、意外に、教育というものが観念的なものであってはいけないという、そういう考え方が、どんどん出てきてるわけです。

 我々が、日本の教育思想というようなもの、或は教育の変遷というのを見たら、「寺子屋」というのが顕著なものとしてありますね。この寺子屋は、もっぱら「子、曰はく(のたまわく)」だったわけです。だから、「読書百編意自ずから通ず」というような論語の言葉などを、それこそもう、子どもたちには、無批判で、ただ単に、反復学習させたということだったわけです。「読書百編意自ずから通ず」というのがあって、「素読(そどく)」と言いました。素読がほとんど教育だったのです。ですから、子どもたちが分かっていても分からなくても、「子、曰はく(のたまわく)」と、寺子屋の先生が言う通りに言っては、ま、我々もある程度は記憶の底に残っていますが、「朋あり遠方より来る、亦楽しからずや」なんていうようなことですね、友だちはとても大事なものだということ。そういう言葉でもって教わったわけです。かと思えば、「身体髪膚(しんたいはっぷ)之を父母に受く、敢えて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」などということが、論語の言葉としてあって、それを、さかんに、教師の口まねをしていた素読の時代。したがって、どうしても観念的にならざるを得なかった。知識というものが、ただ単に外から入ってくる、そういうふうな言葉としてしか入ってこなかった時代。
 で、ふり返ってみますと、そんなことだけではなくって、実は、日本にも、そういう思想があったというので、この前は、doingにかこつけて、ぼくが、実は、こういう本(『Doing思想史』)を紹介したのです。これは、重要な本だと思うので、みなさん、これからあとも気をつけて、もしご覧になれれば、ご覧になった方がいいんじゃないか。ぼくは頭脳がプアなものですから、よく理解できない部分もあるのですけれども、日本名でもって、テツオ・ナジタ(ナジタ・テツオ)という、アメリカでずっと教育学の勉強をしている人です。

 この本を知ったのは、大江健三郎が、朝日新聞の「定義集」という、月にいっぺんぐらい出している新聞記事の中に、このナジタ・テツオのものが良かったと紹介している。で、ナジタ・テツオが特にアメリカ生活をずっとしているのですけれども、日本にどうしても、自分のルーツを求めて訪ねてきたいっていうんで、訪ねてきたというようなこともありましてね。
 この人が、leaning by doingというようなことで、紹介しているのが、この安藤昌益なのです。安藤昌益は、秋田の出身で、青森県の八戸で町医者をしていた。江戸時代の人です。これ、寺尾五郎という人が書いたもので、ぼくが初めて知ったのですが、何しろ読んだと言えないくらいに、本(『先駆 安藤昌益』)が、まだ真新しい状態でね。これ30年か、そのくらい前のものです。この安藤昌益の教育思想というものは、デューイの思想とかなり相通ずるところがあるのです。そういうことで、おそらく東北大学の大学院ということですから、この阿部さんも、安藤昌益のことなども、頭の片隅にあったことではないかと思います。この辺までを序論としておきましょう。

 まず、引用文献の、ページで言うならば、153ページを見てください。[註]1) とあって、一番最初に、国分一太郎の『新しい綴方教室』引用されている。「国分一太郎」という名前は、今でこそ誰もが知っている名前でありますが、この本が出た頃(1951年、昭和26年)には、国分一太郎という名前は、まだ全然知られていなくてという話をこの前しました。『学級革命』の小西健二郎などは、「くにわけいちたろう」というふうに読んだということを、彼自身が言っているわけです。
 で、この『新しい綴方教室』は、やはり何といっても、国分一太郎綴方理論の原点と言っていいわけですが、安部貴洋氏は、この本をまず取り上げているのです。
 その次に取り上げているのが、『国分一太郎文集6巻 生活綴方と共にⅡ』です。数ページにわたって引用している。この本で、阿部氏が何を探ろうとしているのかに関しては、あとで逐一申し上げてまいります。
 その次、『現代教育の探求』という、こういう本が国分一太郎にはあるのですが、国分一太郎は、戦後すぐに書いた『新しい綴方教室』の他に、国分一太郎はやはり啓蒙的なことが非常に好きな人だったんですが、こういうもの(『文の話 詩の話』)があるのです。
 この本は、戦後すぐに、国分一太郎が、啓蒙的なことで書いた本の最初のものと言っていいと思います。学校の先生のために、どうしても書きたかったものなのです。これは、他にも、小学1年生から6年生までずらっとあるのですが、国分一太郎の担当が小学校3年生で、これがそうなのです。
 この本は手に入らなくて、どなたに借りたのでしたか、借りて全部コピーしたのです。これが、ぼくがコピー機を購入した最初だったかもしれません。
 これを見ていて、国分一太郎が、綴方というもの、生活綴方というものを、学校の先生方に語り、実際に、子どもが使えるようにというふうなものでもって作っていった。そういうことに思いを致してみると、安部氏が、国分一太郎について、『新しい綴方教室』で、生活綴方というものを、このように見ていたというようなこと、それの具体的な表れが、こういう本だろうと思うのです。
 『新しい綴方教室』の一番おしまいのところに、「子ども文章病院」というのがあります。この「子ども文章病院」には、国分一太郎が生活綴方教育をどう考えていたかが出ているわけです。『新しい綴方教室』は、本文の方よりも、「子ども文章病院」の方を現場の先生たちは、繰り返し見たのではないかと思います。
 「子ども文章病院」は、「附録」としてかなりのページ数をついやしているのですが、こういう子供向けに書いたものを見ていると、おそらく、他の、生活綴り方陣営の人たちじゃない人たちの綴方読本みたいなもの、それとはかなり違ったものがあるのではないか。
 ナゼそういうことを言うかといいますと、「作文の会」という団体があったのです。日本作文の会ではない「作文の会」です。この「作文の会」の人たちが、ずっと考えていた「作文」というものと、どこがどう違うのかということになりますが、やがて、「日本作文の会」が発足した時に、我々が、この「作文の会」のことを揶揄的に(からかうみたいにして)つけた名前が、「満州作文の会」でした。「日本作文の会」に対してです。この会は、石森延男を中心にして、中国帰り、満州帰りの人たちが作ったと言っていいと思います。その後、光村図書の教科書の編集の中心をやった八木橋雄二郎という人が、この会の中心になってやっていくのですが、「日本作文の会」を目の仇にしていくのですね。
 どこがどう違うのか。いろいろあるのですが、「満州作文の会」の方は、豊田正子系統の文芸的なものを追究している。石森延男という名前を聞いただけでも想像できますよね。さらには、藤田圭雄(ふじたたまお)が中心になって、『野上の鉄ちゃん』などという、子どもたちの文集が、中央公論から出版されていくのですが、その系統というのが、どうも生活綴方とは違うのではないか。
 ぼくが今日、話そうと思っていたことの一つは、何が「満州作文の会」を作らせたのか。簡単に言うならば、国分一太郎はマルキストだ、生活綴方はマルキシズムだというふうなとらえ方、これが非常に大きいだろうと思うのです。
 145ページの「2 デューイと国分の教育的課題」の上の方です。「マルクス主義はこの時代の趨勢であったと言ってもよい。」という部分があります。引用として、そこに7)として出ていますけれども、結局は、そう言われてもしようがないというよりは、それは、一方では、非常に正しいのだと言える。それはなぜかというと、日本作文の会の常任委員の中で、中心的に動いていた人たちというのは、圧倒的に共産党員だったということです。そこのところが、安部貴洋氏などは、あまりはっきりとは書いてはいませんけれども、そこのところに、「マルクス主義がこの時代の趨勢のあったと言ってもよい。」というので、国分の生活綴方は、マルクス主義によって始められたわけではないというところが、かろうじて、何と言いますか、ぼくが今、強調している《日本作文の会の中央委員、常任委員といわれる人たちには、共産党員が多かった》ということとは違う見解みたいなものが、出てきていますよ。でも、それは違うのです。実際、マルキシズムに立ったというふうにいっていい部分というのが、ずっと、やっぱり学者の分析でもあるわけです。そのへんの学者の分析というのが顕著に出ていたのが、この『現代日本の思想』、これです。これも、安部貴洋氏が取り上げた文献の中で大きな存在なのです。大きな存在といいましたが、一つは、『新しい綴方教室』がそうですね。もう一つは、この『現代日本の思想』、そして、第2番目に引用されていた『国分一太郎文集6巻 生活綴方と共にⅡ』ということになります。
 安部貴洋氏は、少壮の学者でありまして、しかも、この方、東北の、宮城県の出身なのです、名取といいましたか、その辺の出身の方で、145ページのところに書いてありますが、国分一太郎は、1930年(昭和5年)、山形県の北村山郡長瀞小学校で教壇に立った。この頃、これは津田道夫の『国分一太郎 抵抗としての生活綴方運動』に詳しいのですが、この辺は、非常に農民運動などがさかんな地域でありました。そういうことがありまして、安部貴洋氏は、マルキシズムに立った教育、それが国分一太郎の中心だったなどというようなことは書いてないのです。むしろ、否定するように、《「生き生きした子どもたちに教える人になるのだとの強い自覚を、もっともってほしい」と訴えた国分だったが、赴任後は「幻めつの日日」だったと言う。》と書いている。自分の理想としたようなことが、ただちに、教室、教壇で現わせることではなかったということなのです。
 「文化の伝達と創造」という、この146ページの上の方に出てきますけれども、そういうことを国分一太郎が師範学校で学んだのだけれども、そのことを何としても打ち消して、自分の考え方を普及したいと考えていた。しかし、子どもたちの実態を見た時に、そんな段階ではないということで、「幻めつ」を感じていくというくだりが、ずっとここに書かれているわけです。このことは、安部貴洋氏でなくても誰でも気づくことだろうと思いますが、それにしても、「幻めつ」という言葉には、子どもたちの学力の無さということ、それを非常に嘆いていたということがいえるだろうと思います。
ただし、その「幻めつ」がというので、今度は、その次の147ページの2段落のところを見てください。《国分にとって、デューイの教育思想もまた「幻めつ」させるものでしかなかった。》
これは、安部貴洋氏が、非常に正確にとらえているだろうと思うのです。国分一太郎が、新教育批判をしたということです。それは、このデューイのプラグマチズムというものを鵜呑みにはぜったいしなかったという証拠なのです。そういうふうに考えていいだろう。
そのくだりだけ、読んでいきますと、147ページの第2段落のところです、《国分にとって、デューイの教育思想もまた「幻めつ」させるものでしかなかった。「いまはじめて、この教室にふみこんできては、どうとりいれるかに迷うのだった。実用主義(プラグマチズム)の教育観などは、一顧の価値さえもないものと、わたくしたちは教えられた。だから帆足理一郎氏などの本で、デューイの思想をよんだとしても、わたくしには、それがこの教室で、どう生かされるのか、いや、生かすべきでないのかさえもわからなかった。》国分が言及していることは、こういうことだったわけです。ですから、国分一太郎が、新教育ということでもって、旧教育を、すなわち戦争中の教育を肯定しているのではないけれども、新しい民主主義と教育というようなものに対しても、「幻めつ」をもっていたということです。
 国分一太郎が、先ほども言いましたが、『新しい綴方教室』では、現場に立っている小学校教師たちのために、こうでなければいけないということを書いているのですが、しかし、やはり、国分一太郎の真髄といいますか、それは、やはり、いつでも口癖のように言っていた、学者が信用できない、というような言い方ですね、日本の教育学者は、本当に信用できないという、そういう言い方をよくしていましたけれども、そういうことはやっぱり、全くかわりなかったというふうに言えるわけです。それで、もう、ぼくの方は、簡単に終わってしまいますから、皆さん、あとでまた、これは、ご自分で読んで学習してみてください。
 これ、本当に難しい日本語になってるのですけれども、おそらくデューイ教育学を勉強した人たちは、こういうことを翻訳して、こういう言葉、日本語に置きかえたのでしょうが、「胎芽的な社会と生活綴方」という、これが、やっぱりいろいろ分からないことだらけなのです、ぼくなんか読んでいてもね。すなわち、デューイが、学校を「胎芽的な社会」(an embryonic socity)、こういうふうに言った。これは、やっぱり、英語でもって、分からなきゃいけないと思うのですが、この、前のanは、冠詞ですからいいのですが、そこで、embryonic(エンブリオニック)とあります。これは、「胎芽的」というふうに訳すよりも、英語辞書、辞典の訳語の中にある、「未発達の」というふうに書いておいた方が、むしろ、国分一太郎がよく使ったことばと合致するのでないかと思うのです。
 これを、「胎芽的」とするよりは、むしろ、「未発達の」、というふうに、すなわち、社会という、複雑な、いろいろなものがある中で、学校というものをみた時に、それは、社会の縮図とは言えないわけですよね、ぜったいに。だから、そういう意味では、「未発達な」というふうに言っておいた方がいい。

 国分一太郎が、自分の教え子たちに、口癖のように教えていたことの中で、「よく学び、よく遊べ」という言葉を言っていたとあります。ところが、それは、一般的に、そう言ったのであって、農村の子どもたちには、それを見ていると、「よく学び、よく遊べ」ではないと。では、国分一太郎は何と教えていたのか。何人もの教え子の方々がこぶし忌で語っていましたが、決して、「よく学び、よく遊べ」というふうには言わなかった。すなわち、子どもたちは、この長瀞小学校においては、長瀞村においては、ほとんどが、労働力だったということ、いわゆる、「手伝い」というものと働く、「働き」ということを分けて考えるならば、子どもたちの方は、もうまさに手伝いじゃなくて、一人前の働き手として考えられていたということです。

 そうすると、ただ単なる「未発達の」というふうに言ってはいられない現状というものが、農村の子どもたちにはあったのではないか。だから、こんどは、149ページの頭に行きますけれども、「学校は、小型の共同社会、胎芽的な社会となる機会を得るのである」というふうに、書いてある。そういうふうなところでは、むしろ、未発達ということで、子どもたちも、もう、まさに一人前の労働力として考えられていたという実態を、安部貴洋氏は、そのへんのところで、国分に、国分の解釈をしているということは、記憶しておいていいんじゃないか、というふうに思います。

 阿部貴洋氏が、今度は、151ページです、「デューイ教育思想需要の問題」というところで、「山びこ学校」のことが出てくる。 誰もが言っている、無着成恭は、国分一太郎の直弟子ではなかったということ、そして、無着成恭は、生活綴方を知っていて、あの山本中学における教育をしていたのではないということなどを、かなりまっとうに受け取っているというような気が、ここではいたします。
 そのうちに、もう少し具体的に、先ほど言いました、『現代教育の探求』と『新しい綴方教室』と、さらには、『現代日本の思想』、これをもとにしながらも、先ほど紹介しました、子どもたちにどんな文章を書かせるかというので、具体的に、子どもたちに話しかけ、あるいは、指導の材料として取り上げた、この『文の話 詩の話』、これあたりの研究を、やっぱりしていった方がいいだろう。ただし、『文の話 詩の話』というものは、その原点は、『新しい綴方教室』に、全てあるんだというふうに言っていいだろうと思うんです。で、国分一太郎は、その後、この『文の話 詩の話』から、かなりかけはなれた、あるいは、これを発展的に解消していくような、そういう著書をたくさん出していますが、ここに出てきているものが、ほとんど戦中、戦争中の子どもたちの作品を資料にしながら書いているということになればですね、ならば、戦後すぐには、学校の資料がなかったということもあって、そうしたということも言えるでしょうけれども。それと、さっき言った未発達な社会、それが学校であるというふうに考えた。それを少しでも、そうでない、大人のものに結びついていく、そういう芽、萌芽としての学校というようなこと、そういうことを頭の中で置いたんだということが言えるんじゃないかと思います。

 それで、この中で、ちょっとだけ紹介しておきますけれども、山びこ学校の事が出てきたので、山びこ学校というのの特徴は、やはり、山本村という、農山村、純農村と言えない農山村、山に近い、そういう所で、やはり経済生活ということを、ある程度、子どもたちにしっかりと身につけておかないとダメだということが、あるだろうと思うのです。

 で、そういうことが、実はこの『文の話 詩の話』の中に、いろいろ、この前、田中安子さんが話した中で、ぼくが、あとで、分析的に言ったことは、やはり生活綴方の本質としてあげてある、そういうようなことを、具体的に展開しながらも、教師側は、理念として、それをきちんと持っていなければいけないということで、子どもたちの経済生活のことも出てくれば、その他のことも、いろいろ出てくるということ。そういうふうに考えた時に、この本の中で、例えば、親たちの労働を書いていながら、その親の労働というものが、自分たちの生活とどうつながっているかというようなことを意識させるような方向にもっていっているということですよね。
 だから、例えば、秋田の『汽笛』のように、〈あの汽笛、田んぼに聞こえただろう。〉というふうなものと同じような、子どもたちへの非常に何かつらい生活というものが、ここのところに、たくさんあるんですね。
 今、汽笛のことを言いましたが、これは、秋田とはまるで反対のところにある、九州の佐賀県、三年生の女の子のものです。『子守』。〈晩まで子守をする。弟が泣く。早く、山からお母さんが来ればよい。もう、つぼも暗くなった。泣くな、お母さん、もうすぐ帰るよ。や、お母さんが見えた。もうその時は、弟はねいってしまっていた。「ねいったね、きつかったろ。」お母さんは、弟を見ながら、くわをおろす。〉というように、労働そのものを書いていることが出てきている。

 非常にざっぱくなものの言い方になりましたけれども、やはり、国分一太郎の本領というのが、ぼくは、今も、ぼくの床の間に、掛け軸をかけてあるのですけれども、子どもたちの文章を読むと胸騒ぐというふうに、〈子らの書く文(ふみ)の数々、胸騒ぐ〉という条福(じょうふく)を書いてもらって、飾ってありますけれども、〈今日も読みつぐ、明日も読みつぐ〉というふうに、子どもの文章を読むのがどれほど自分は好きなのか、あるいは、そのことに喜びを感じるのか、ということを書いてあるんですけれども、その子どもらが書く文(ふみ)、作文というものが、実は、国分一太郎にとって、ただ単なる、大人の縮図ということではなくって、本当に、子どもたちへの認識力というものを育てていくもの、ということで、いつでも念頭を離れなかったものじゃないかというふうに思うということです。
この次は、もう1回話させていただきますが、その時には、もっと文献にそったもの、安部貴洋氏が、どこをどう取りあげているかを、お話しようと思っています。


《提案》
ビデオと文書による「国分一太郎・学芸大学の講義 その2」

第2回講義演題

「1930年前後として教師になった人たちの抱えていた悩み」
           
                         提案者 田中 定幸さん

 田中さんからは、国分一太郎・学芸大学特別講義 第2回のビデオ再生の報
告をしてもらいました。1984年5月30日に行われた第2回講義「1930年代前後と
して教師になった人たちのかかえていた悩み」という演題の講義です。

 16ページにも及ぶテープ起こしなのですが、これでも講義の半分なのです。
最終16ページには「つづく」となっており、3月に再度提案をしてもらうこと
になっています。

 頭が下がります。田中さんは、10月提案のまとめ(「とつおいつ35」と卒業
文集に関する榎本提案の報告)を作りながら、今回の、この11月提案の準備も
進めていたわけです。
でも、いい勉強ができました。

 後半で観たビデオからの影響もありますが、国分先生の独特の語り口、そし
てちょっとした独特の言い回しというか言葉遣いに、たいへん引きつけられて
しまいました。

 何よりも、一番うれしいのは、講義のテーマです。「生活綴方」の教育が生
まれようとしている前後に、教師たちは何を悩んでいたのか。そして、そうい
った悩みが「生活綴方」にどう結びついていくのか。たいへん興味がそそられ
るテーマだと思います。

報告の冒頭で、田中さんから、

これからのお話というのは、国分先生の第2回の講義としては、1930年前後として(前後としてと言っているのですね)教師になった人たちが抱えていた悩みであるというふうに、題目を立てています。これは、「生活綴方」が生まれる少し前の話なんだということなのです。国分先生は、講義の中で、だいぶ、もう2時間くらい話した後でも、まだこれは、「生活綴方」(かぎカッコで生活綴方)というのと、その前にいろいろな「生活表現の綴り方」とか「村の綴り方」とか言われているものが出てくるのですが、こういったものとは、国分さんは、はっきりと区別しているんですね。そして、その「生活綴方」という概念規定に関してきちんと考えを述べていくために、どんなことを話したかというのが、今日の大体の話になると思います。

という説明がありました。そして、テープ起こしをして作成した資料をもとに、
話が続きました。

国分一太郎が教師になった1930年(昭和5年)。この翌年には、満州への侵略
が始まるという時期。この時期に、青年教師たちは、何を悩んでいたのだろう
か。

 一つは、「読み方教育」の考え方と指導法について悩んでいた。
いくつもの
高邁な理論があり、子どもたちに、それを適用して教えようとしても、一つ一
つの文字さえ読めない、単語の意味も知らない、そういう子どもたち(農村の
子どもたち)の実態の中で、どうしていったらいいのか。こういう子どもたち
にも分かるような、もっと素朴な読み方教育をやらなければいけないのではな
いか、としてさまざまな試み、努力がなされていく。

 悩みのもう一つは、時代的な不況。1930年には、前年の世界大恐慌の影響が
日本にも及んでくる。米の価格の大暴落などで、米を作っても自分たちは食べ
ることもできない、借金がたまって農家の娘が売られていくといった情況があ
った。そういう情況があったにもかかわらず、子どもたちが教えられている文
章は、「浜村は戸数何百戸にして、全村皆農業をいそしむ。村は四季、春夏秋
冬、風光明媚にして、田園広く拓き、村人皆勤勉にして」、このような文章で、
子どもたちは、学ばされているわけである。だけども、実際の農村というのは、
全くそんな情況ではない。「日本の農村はこのように、村長以下、朝に夕に、
一生けんめい働いて、美しい平和なところになっている」というふうに書いて
あっても、現実はそういう情況ではない。時代的な不況の中で、生活が困窮し、
世の中への不満がつのったり、あるいは生活の立て直しをせまられている、そ
ういう情況の中で、子どもたちをどのように育てていったらいいのかというこ
と。
 世界的なところでは、『児童の世紀』というようなエレン・ケイの本が出て、
子どもたちを自由に解放し、教育しなくてはならないというふうに言われてい
るような世界的な傾向はあったのだけれども、日本は大陸へ進出しなければ、
農民や労働者の怒りとか、あるいは不平というものを解決できないような状態
で世の中は展開している。そういう情況の中で、いかに教育を展開するかとい
うような悩みが二つ目にあったわけである。
*納得。この辺の田中さんの理解の仕方は、すごい。 
この後、綴り方教育に関連して、面白い話が、どんどん続いていくのですが、
晩酌の時間がとうに過ぎているのと、ここで原稿を締め切らないと、印刷に
間に合わなくなってしまう関係で、田中さん、すみません。ここで終わります。
                                                     (文責:工藤)

                               

1月例ないのご案内

1月例会  2011年1月30日(日) 午後1時より 乙部武志宅

《提案》 『5分間メモに取り組んで思うこと』
・ 学級が一つの目標に向かって進んでいく理想的な学級経営の指針となっている。
・ 児童相互の感じ方を共有でき、互いを認めるかけはしとなっている。
・ 教師が子どもの心の変化をキャッチできる最短時間にして最高の時間となっている。
・ 書くことの意欲が他教科で活用でき、学校生活全般に良い影響を与えている。
・ 児童の喜び、悲しみ、落胆、成長を受け止めることができ、児童一人一人の明日からの指導の方向性を決めることができる。
・ 児童一人一人が、間違っても困っても乗り越えられる人間関係が育っていく。
・ 児童が、今、どんな家族の中でどんなことを考え、どんな力で乗り越えようとしているのか、見守り理解できるようになってきた。
                             提案者 早川 恒敬さん 

 
◇講義・乙部武志さん とつおいつ37「デューイ教育思想と生活綴方」を読む その3

◇司会 左川 紀子さん

◇記録 榎本 豊さん                   

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