『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

綴方理論研究会 10月例会のご案内(2018年)

綴方理論研究会 10月例会のご案内(2018年)

綴方綴方理論研究会・10月例会のお知らせ
■2018年10月21日(日)午後1時
■場所 駒場住区センター 1-22-4
渋谷駅より、京王井の頭線、最後尾に乗車し、駒場東大前駅下車。12時45分頃改札口にお出でいただければ、ご一緒に会場へ。 
■連絡先  090-4920-7113(事務局 榎本)
■内容 ◇「とつおいつ」 103回  乙部 武志さん
    ◇『技能科教育 研究の一端』(「復刻 生活画の起源」)から
       ―長瀞小学校の教育を考える―          (小山 守さん)
 ◇「分類カード」研究(提出者)
【9月例会報告】
◇参加者 工藤(司会・記録) 田中  添田  小山  榎本(豊) (敬称略)
*乙部武志さん、ご都合によりお休み。「とつおいつ」は休講となりました。 

◎報告 『労働の現場から言葉を探すこと 言葉を獲得することについて 
        ~田代ゆきの論考から~』   (添田直人さん)

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◆次のような提起で報告がスタートした。話の概要は次の通り。◆最近の風潮の一つ。「強い者」が理不尽な要求を通してしまう。それに対して、「それはおかしい」「それはNOだ!」とはっきり言わない傾向。おかしいことはおかしいとはっきり言えない、言わない状況、これをどう受け止めていったらいいか。さらにそのような「強者」の理不尽にさらされた側の人間は、どのように言葉を発していったらいいのだろうか。その辺の事情を田代ゆきの資料をもとに検討してみたいというのが添田さんの提案。三つの資料の提示があった。以下、資料の簡単な説明。

《資料1》「政治 断簡 キリない怠慢 華麗なる欺瞞」
                 (朝日新聞 2018.9.17 論説委員 高橋純子)

◆喫茶店のトイレで筆者が出くわしたエピソードが紹介されており、これが面白い。◆喫茶店のトイレに張られていた張り紙の文句「最近、トイレットペーパーを大量に使用しているお客様がいらっしゃり、便器が頻繁につまっております」「そのたびに従業員が便器に手を突っ込んで取っています」。とあるから、この筆者、次は当然「大量に使うのはお控えください」と来るだろうと思いつつ読み進めると、「たくさん使っても構いませんので、少量をこまめに流していただけるとつまらなくなると思います。ご協力をよろしくお願いします。」と来たそうだ。はっきりと、大量使用は<やめてください>ではなく、なぜ大量使用でも<構いません>なんて言うのかと、この筆者は問題提起している。そのあと、「キリない怠慢、華麗なる欺瞞」という話が続くのだが、省略。

《資料2》 二度殺された労働者の身体 
 ー揚野浩『プロレタリア哀愁劇ー田代ゆき(文学館嘱託員)
             SYAKAIHYORON 2017 夏』

◆執筆者の田代ゆきは、福岡市の広報誌に「文学散歩」という連載の記事を書いているのだが、記事の原稿を提出した数日後、広報誌担当の市職員から電話がかかってきて、文章の一部のカットを要求されたやり取りが書かれている。田代はこの「文学散歩」の文章の中で、『プロレタリア哀愁劇場』という小説の一部を紹介しているのだが、<その部分が「すごく強烈」なので(カットしてほしい)>というのが理由。◆田代の反論。<この文章は「手垢に汚れていない、切実に大切だと思う光景を写し取ろうと思って書いたもので、「文学の言葉を不当な検閲にさらすことをできない」>。その旨伝えるのだが、相手の担当には、その主張が通らずにしまった、と書いている。◆そのエピソードの紹介のあと、『プロレタリア哀愁劇場』という小説の全体像がかなりのスペースをとって説明されている。そして、その上で、この小説の中に描かれている労働者たちの生きざま、彼らの言葉を挙げながら、自分も「自らの労働に責任と権利とを」求めて歩を踏み出していきたい、としている。

《資料3》<労働者通信>「末端の労働組合員の場所から発言する」
                     田代ゆき(福岡市文学館嘱託員)

 
 筆者の田代ゆきは、九州大学の大学院を出ているとのこと。「嘱託員」とある通り「非正規労働者」。文章から、文学を中心に研究をしてきた人のように思えた。ここでは、<非正規労働者として自分が置かれている場所から「不条理に苛まれた人間の心身が宿した怒りの熱」を問い続けていきたい>といった内容が書かれている。

《資料4》 「内部者たちの言葉」
         田代ゆき(『サークルの時代を読む』2916.12月.影書房所収)

いくつものサークル誌の中から、詩や文章が紹介されている。それは、どれも自らの労働
現場の中で、「不条理」、「八方塞がり」の状況を何とかして突き破っていこうとする産みの苦しみを書き綴った作品である。<身体に深く堆積する不条理の感覚、それにぴったりと合う言葉を探すこと、直面する不条理を論理的で明確な言葉であらわすことに努力したい。生活し労働する現場の内部に生きる「内部者」として、自分の内面を深く抉り出して表現していく、そんな綴り手でありたい>、というのが結論のようだ。
《討 議》
◆喫茶店のトイレの張り紙をどう評価するか。読み手(客)をあまりにも意識しすぎてしまうのはナゼなのか。もし、はっきり「大量に使うのはお控えください」だったらどうなるか。これと似たような話はいっぱい出てきそうで、いろいろ考えてみる必要のある面白い話題だなと思う。◆関連して、文字で表現するとき、<読み手を意識させることはいいことなのか、よくないことなのか>、読み手を意識させることの是非が問題になった。今の学校の現状は、<読み手を意識して書く>こと一辺倒になっている。子どもの考えが育っていくのかどうかという観点からは、あまり小さいうちから相手意識を強調するべきじゃないだろう。まずは、子どもたち自身が自分で言葉を選び表現していくことに集中させてあげることが大事なんじゃないだろうか、といった意見。◆「内部者」という言葉の使い方。どういう意味なのかが話題となった。意味がつかみにくい言葉だが、労働現場にあって、自分が「理不尽」の被害者だという認識だけでなく、「圧倒的な加害者」でもあるという認識で、自らの内面を探り・言葉を発し・綴っていく者、そういった意味合いか。◆田代ゆきの語り口に関して、詩的というか、感覚的、感性的な言葉、表現が多いという指摘があった。使われている言葉が何を指し示しているのか、どういう言葉に置き換えることができるのか。そういう点で、分かりにくさがあるのではないかという指摘だったように思う。私自身は、田代ゆきの文章、やはり抽象的な表現が多く、主旨をつかんでいくのに少々悩んだ。しかし、<今ある労働現場の姿を、しっかりと捉えて書き綴っていく書き手でありたい>という、「熱」「想い」はよく伝わってきた。◆『社会評論』というのは、社会評論社とはまったく関係ない季刊誌らしい。全学連の初代委員長「武井 昭夫」に関係があるとのこと。榎本さんによれば、この雑誌に、墨田教組委員長だった故・内田宜人さんが連載で文章を書いていたという。この雑誌、面白そうなので読んでみようと思っている。

◎分類「カード」作り 
「持ち物」の説明 ー本人との経過や関係もふくめた説明ー 
                         田中定幸さん 

 
◆『作文と教育』(1990年3月号)。「作文教育ここが大切・授業計画」、《作品の見方・生かし方 六年生》「思いだしなおしを大切に」の論文。◆カードは、その中で取り上げられている『ラジコンを持っているお兄ちゃん』(横須賀市立船橋小学校 宗像弘江)という作品の一番最初の段落を取り上げて分析をしたもの。◆司会がうまく進行を塩梅できず、分類カード検討は、十分にできなかったのだが、『ラジコンを持っているお兄ちゃん』の作品についてはいろいろな話し合いが行われた。◆この作品の文末表現について、「常体」(「ふつう体」)で「~した」「~だ」「~である」を使って分かりやすく論を進めている。そういったところにも目を向けさせたいということから、常体と敬体の扱いの話になった。ふだん子どもたちには、常体と敬体が混ざらないようにと指導するが、敬体で書いたり話したりしている中で、テンポよく書き綴る、話すなどといった時に、一部が常体になるということがあってもいいのではないか。◆今年の山形の研究会での会長挨拶、田中さんは、まずは敬体で話し始めて、想画の歴史に話が及んだときは、説明を淡々と、歯切れよくするために、わざと常体で「~こと」「~こと」「~する」「~する」「~を見直す」等、短く切って話したのだそうだ。もちろん、おしまいは敬体「~ました」に戻っている(この問題は、もう少し、話し合いを続けると面白いと思う)。◆田中さんが参考作品として取り上げた『ラジコンカー』(1979年版 年間文詩集 亀村五郎さん指導)。これが宗像さんには強烈なインパクトになっている。互いの兄、母親を客観的に比較する重要な役割を果たしている。参考作品はやはり大切だ。◆1979年発表の作品『ラジコンカー』と1990年発表の作品『ラジコンを持っているお兄ちゃん』。およそ10年のブランク。1979年頃はラジコンカーもかなり高価だったはず。互いの兄、母親の対応の違いが興味深い。◆主題が端的に分かるように書かれている第一段落が、すばらしい。全くその通り。田中さんがカードに取り上げた個所だ。◆今の教科書には、適切な参考作品が載っていないということから、現在の教科書の傾向。「じゅんじょよく書きましょう」という単元、「はじめに」「つぎに」「それから」「さいごに」(感想)のように、構成がパターン化されているものが多い。こんなのが二年生の教科書に載っているのだという。このパターン化をどのように打ち破っていくか。      2018.10.10(文責 工藤  哲)


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