『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

綴方理論研究会 3月例会のご案内(報告)

綴方理論研究会 3月例会のご案内(報告)

日時 2010年3月27日(土) 午後1時~5時

場所 東京都世田谷区代田6-19-2 乙部武志邸にて

《内容》

◇講義「とつおいつ33」 乙部武志

◇提案『子どもの変容してきた姿について』

◇提案者 中山 豊子 さん (墨田区立業平小) 

◇司会 榎本 豊 さん 
◇記録 工藤 哲 さん 

 

講義 とつおいつ その32 「国分一太郎と自然科学(的認識)」

                                              乙部 武志  

第6回「文学」と「教育」研究会の研究発表者(=講師)の候補について

(1)平林 浩氏。
私立和光学園に長いこと在職。仮説実験授業を中心に研究を続けてきた人で、「国分一太郎と自然科学(的認識)」ということでは、一番ぴったりの人だろうと思う。板倉聖宣の主宰している科学サークルでも活躍している。打診をしてみたら、「お受けしましょう」ということになっている。

(2)梅津恒夫氏。
山形から例年出ている候補者のひとり。山形の現場(高校)教師の方で、自分の在職中の実践をまとめた『デコボコ教師わが・いもこ洗いの記』などがある。国分一太郎の「胸のドキドキと唇のふるえと」の詩に啓発されて教師になる決意をしたという。この方も、話をしてもいいということになっている。

第7回「文学」と「教育」研究会の研究発表者(=講師)の候補について

(1)村山順一氏。
読書教育を中心にやっていた山形の現場教師の方。分科会の発表者として、山田さんが推薦している。

(2)津田道夫氏。
山形で、新版『国分一太郎 抵抗としての生活綴方運動』を書いた津田氏の話を聞きたいという声が高まっているという山田氏の書状もあり、津田氏に話を入れてみたら、即座にOKをいただいた。

「国分一太郎と自然科学(的認識)」

「国分一太郎と自然科学(的認識)」と題して、話をしていく。

拘置を解かれて

 国分一太郎が山形警察署の拘置を解かれて出てきた時、国分一太郎は、東根のあの自宅に戻ることは不可能でした。
 どういうことか。戦争中の日本の国情というものがあった。その頃は、たとえば、出征兵士を送るなどというようなことは、町ぐるみで行った。それから、戦死をしたなどという時は、それは、必ず、町葬、町の葬儀になるということがあった。さらには、いわゆる、「アカ」といった、共産党系左翼の動き、安維持法に触れるようなことをしたということになりますと、いつでも特高警察が家の周りをうろうろしているなんてことがあり、「国賊」というふうな言い方をされたりしました。そういうことがありましたので、国分一太郎が山形警察署の拘置を解かれて出てきて、そして東根のあの自宅に落ち着くということは、まず不可能だったんですね。すなわち、おまえのせいで、われわれは「国賊」の親戚だとかなんとかということで非常に迫害を受けているというふうな声が大きくなったというわけです。
 ついでなことですが、戦後になってから、山形県東根市になったところで、東根市では、市出身者の中から、非常に市の名誉を高めたという方を表彰する、表彰するだけはでなくて何か記念碑をたてるというようなところまで話し合っていたらしい。その時に、国分一太郎の名前があがった。ところがそれは、こんどは逆に共産党から反対が起こってそれはもうたち切れになってしまったということがあります。で、それは共産党からというのだったらば、国分一太郎は、六全協という共産党の大会の前後のところで、除名されてますから、これは分からぬのではないですけども、東根の市民の中からやっぱり反対の声が起こったといいます。どういうことかと思ったら、何のことはない、国分一太郎の親戚の方々が、俺たちはお前のせいで肩身の狭い;思いをしてきたんだ、だから今更表彰もないもんだというようなことでもって、たち切れになってしまったということがあるのです。そういうふうにし;て彼は、東根にいられなくって東京に出てくる。

東京に出る

 東京には、当時、多摩川べり(今は川崎になっているのかな)に、妹のハルさんがいて、そのハルさんを訪ねて、そこを落ち着く先にしたということがありますね。
(注:記録者。国分一太郎は出獄をした後、多摩川べりの新丸子にいた妹のハルをたよって上京している。1943年、昭和18年のことで、国分一太郎32歳である)。

子どものための通俗科学、その科学読み物を書きたい

 その前後にですね、彼はやはりどうしてもこれから後は、自分も食べていかなければいけないし、今まで不幸を重ねてきた親たちも安心させなければいけないということでもって、その後の自分の口を糊する、生活するすべというものを考えざるを得なかったというわけ。そういうふうな環境の中で、彼は、人々になんと言ったかというと、私はこれから後、文筆で生計を立てていきたいと思うと、ただちょっと意外だったのは、もう当時から彼は子どもたちのための童話を書いたり、あるいはこれはもう発禁処分になったりしたわけだけれども、『戦地の子ども』なんていうね、そういうふうな最初は文部省推薦になるような広東の子どもたちの様子を書いた小説もあったし、ということなんで、みんなは頭の中におそらくはね、少年読み物そういうふうなものを書くではないかと考えていたら、意外にも彼の口から出てきたものは、子どものための通俗科学、その科学読み物を書きたい、というふうに言っているんですね。

ダンネマンの自然科学史

 で、そのへんのことを、先ほど表題としていった自然科学的認識というようなことを考えた時に、ああやっぱりそうだったのか、と思うところがあるわけなんです。それはどういうことか。
 ぼくは、国分一太郎の住まいに、何度も訪ねていってよく知っていまして、まどりまでも知っているくらいでね。で、通常、われわれが研究会などで、国分一太郎と話し合う応接間があるのですが、その応接間に、書棚、本箱があって、そこに、主たる、彼の蔵書があって、その中に、背表紙の金文字がひときわ光る、ダンネマンの自然科学史、こういう、こんな部厚なやつねそれが、全巻並べられてあったんです。意外だったんですね。その時には、先ほどぼくが言いました、川崎の妹ハルさんを訪ねて、科学読み物を書きたいといったことなど、まだぜんぜん知らなかった時代ですからね。この国分一太郎は、思想、あるいは国語学だとかというなね、そういうふうなところで勉強してきた人だというけれども、ああ、こういうふうなところに関心があったのかとね、ぼくが今度はダンネマンの自然科学史に関心を寄せたという、そういうことがよみがえってくるんですけれどね。

故郷・東根の自然

 何よりもね、その自然科学的な認識とぴったりと合うというような形で思い出されるのは、山形の東根というのは、今でこそ東根市になっているんですけれども、東根町の時代というのは、ま農村ですよね、特に国分一太郎の勤めた長瀞という村がすぐまたとなりにありましてね。それはまさに田園地帯であったわけです。今東根温泉になっている、温泉街というのも実をいうと、田んぼの真ん中からきゅうに温泉が吹き出てきて、そしてそこが温泉街になったという、しかもごくごく国分一太郎の小さい時にそんなことがあったというのですから、彼1911年の生まれですからね、その幼年時代か少年時代か、その辺のところで温泉が湧いてきたのではないかと思われる。田園地帯であったということは、そういうことでもだいたい想像できると思うんですけれども。
 山形東根では、春に出てくる山菜のことを、けして山菜とは言わない。青物と言う。青物採りに山へ行くというふうな、そういう言い方をする。青物と言う。その青物については、その後に今度は色々聞くことになるのですけれども、どこそこに行ったらこんな青物がある、秋の、特にキノコなどがそうなんですがね、出場というのですが、ここはキノコの出るところだ、出場というのですが、そういうところによく通じている人が町の中には必ず何人かいたわけですよね。で春、山菜と言われる他に、木の芽、これがまた実にうまいことね、料理ができるという人たちがそろっていたってこと。

祖母イシの影響

 この青物に触発されて、あの「たわしの味噌汁」のイシというおばあさん、そのおばあさんから青物の話をたくさん聞くんですよね。だから、同じ東北生まれだけれども、ぼくなんかウコギなんてほとんど食べたことがないのだけれども、春出てきたウコギをね、ごはんと一緒に食べるなんていうようなこと、ご飯に入れるなんていうようなこと、そういうことなど、改めてびっくりするようなことで聞いた覚えがあるんですけれども。

植物への傾倒 

そういう、まずは植物ですね、やがて国分一太郎は、その植物については、今度は、盆栽の類、そういうふうなものにも非常に興味を持つようになる。へんなエピソードなのですけれども、あの東根あたりではですね、山のものでも人間の邪魔をするものがかなりたくさんあるんですね。そのじゃまにするもの、みんなじゃまにする、じゃまにしていたものを、うまいことを利用したら、それはノーベル賞でももらえるのではないか、ということを真顔で言うというようなことがあるんですよね。ま、簡単にいうと、山形へ行って、その東根に行くまでの、あの新幹線というけれども、在来線をそのまま使ったね、あの両側に防雪林だとかそういうところがあるんですが、あの防雪林の杉の木などにからみついて成長を妨げるようなつる草があるわけです。そういうふうなものを盆栽仕立てにしたらどうか、と真顔で言うなんてことがよくありました。
 そのようにして、彼は、幼いころから自然認識というものを、自然科学じゃなくて自然認識ということをどうしてもせざるを得ないような環境の中で育ってきたということがあります。

子どもたちの書く文章は論理的でなければいけない

 で、ぼくらがほんの少しばかり、国分一太郎のことを知り始めたころにですね、実を言うと、日本作文の会では作文の夏の大会をね、研究大会を4月末から8月のはじめににかけてやるてことを決めてあった。そのときに、時によって、時の話題、あるいは要求度が強いというようなことから、分科会の数を増やしたり、ちじめたりするということがたくさんあったわけなんです。
 第何回だったか今頭にありませんけれども、国分一太郎の発案でもってね、ただ今までのように作文教育のところでね、子どもたちにどう綴らせるかということだけではなくって、彼が言う、その口癖のように言うことばというのがね、たとえばその、子どもたちの書く文章というものが論理的でなければいけないというようなことを、常日頃からずっと言い続けてきたわけなんですよ。で、それを今度は、指導段階としておいたのが、あの日本作文の会がそれこそ世に、作文の会のその理論を問うようなことにもなったし、逆に言うと、国文一太郎が非難の的になるんですね。そういうふうなものでもあったのですけれども、すなわち、たとえば子どもたちに文章を書かせる、そうすると、どんな題材がいいかということでいうわけですよね、合言葉みたいに国分一太郎などは、いつでもふところ(ポケット)に、書く題材を二つや三つは持っている子ども、そういうふうなものをということを言っていて、それを遠山啓などはなじって、それこそ冷蔵庫を開けてね、今何を食べようかとね探してくるみたいだっていったふうな悪口を言ったことがあるんです。すなわち出たとこ勝負だよね、行き当たりばったりの指導だというわけです。それを遠山啓は、水道方式というような非常に論理的なね、科学的な、そういう発達ということを考えながらやったというようなことがあるので、その出たとこ勝負の教育法というものを非常になじったということがあるんです。
 それに対して、国分一太郎は反論といいますか、実践的な反論をしなければいけないということから大きく取り上げたのが、先ほどから申し上げている、自然科学的認識という分科会と、もう一つには、社会科学的な認識、この二つね、さらにその根幹をなすようなこととしては、芸術的認識ということをね、さかんにいうために、この三つの分科会を実に大事にした時期があるのです。だから、自然科学分科会、社会科学の分科会、芸術的認識の分科会というこの三つ。分科会名は正しくなければ、あとでまたその時の文献できちんと話しますけどね。

関口敏雄

 で、この時に、自然科学的認識ということで、もっとも国分一太郎に目をかけられた人間がいるわけです。関口敏雄です。関口敏雄が毎年のように、その分科会の、常任委員として、あるいは、常任委員になっていない時には、発表者としてよく迎えられたことがあるのです。
 で、われわれの仕事の一つとしては、関口敏雄のことをまた、ちょっと勉強してみなけりゃならないことがあるんじゃないかと思うんですが、これは、さいわいなことに、彼がなくなる前に、だいぶたくさん実践的なことを自分でワープロに打ったものがありまして、彼はわりにまめに、それをパソコンの時代はもう亡くなっていましたけれども、ワープロの時代にはね、非常にまじめにそういうことを残したもので、この自然科学的な認識を関口の部門にするというような形でもって、彼が重用されたということがある。

子どもたちに科学的認識を育てていかなければならない

 かくのごとく、国分一太郎は、先ほど大げさにダンネマンのことを言いましたけれども、そしてこの子どもたちに科学的認識を育てていかなければだめだというようなこと、そして、それが子どもたちの文章表現にいきなければだめだということね、そういうことを言っていたわけですけれども、そう言いながら、特にですね、さきほど話した板倉聖宣などとそんなに仲良くなることなどしなかったんですよね、むしろ、反発するところがあったくらいなんですけれども、しかし周りにはですね、武谷 三男のような、まさにノーベル賞ものの超有名な科学者がいるだとか、やがてその武谷三男と論争するようなことも出てくるのですが、これも武谷三男に非難されるという形だったのですけれども、あまり範囲を広げすぎてもいけないから、せばめて、それでは、国分一太郎は、具体的には、自然科学に関する、特に自然に関することには、どういう関心を持っていたかというと、ここに、われわれ教師向けに書いたものとしては『自然この素晴らしき教育者』、こういう単行本が一冊あります。これは、ぜひ目を通された方がいいと思うのですけれども、今言いました、青物だとかですね、そのほかいろいろなこと、こういうふうなことでもって、農民の知恵みたいな意味で、教えの親から学んだものというので、父親藤太郎の、それこそ、問わず語りですよ、こっちから聞いたわけでも、向こうから教えようとして教えたわけでもない、そういう中で、父親からいろいろね自分で教えられたことというようなものをね、1冊にして書いているのです。もちろん、藤太郎だけではないですがね。

『昭和農村少年懐古』『子ども随筆』

 それから、これは、その後、やはりわれわれがどうしても一度は通過しなければいけないのは、『昭和農村少年懐古』という本です。これの原本となったのは、ほとんどが、昭和でいうと、昭和12年に彼は、極度の神経衰弱、不眠症そんなものに襲われて、そして、千葉県、市川の国府台の式場隆三郎の精神病院に入るわけですね。平野婦美子などの援助があってね、平野婦美子の紹介で入った国府台の式場隆三郎の病院でもってね、作業療法として書いたんですね、山下清などが付属の学園にいたということなどもある、そこで作業療法として書かれたものの一部がですね、ここにカットとしてみんな入っているんですけどね。その作業療法として書いたものがですね、全部、国分一太郎が書いたものですが、当時、川上澄生の版画、それが非常にはやっていたというかね、そういうんで、その影響を受けて、そして自分で書いたもので、ほとんどその場で、ぱぱぱぱっと書いたんじゃないかと思う。
 そうですね、今思い出してみても、国分の長瀞小学校で作りましたね、「がつご」という文集、「もんぺ」という文集、「もんぺの弟」という文集、それらが国分一太郎の筆耕、謄写版のそれでもってよくあらわれている、それから、今度は、今いいましたこの『昭和農村少年懐古』の原型となっている、それが『子ども随筆』という彼の本なんですよね。その『子ども随筆』というのは、ここに、こういうふうに表紙がぼろぼろになったのをね、実物をなんども見せてもらいましたがね、こういうふうなものが、もうそのまま1冊の本になるような形で書かれているんです。
 これを見ていても、彼が自然科学的な認識というものをどれだけ大事にしたかということが分かる。
 話がこじつけという形になるかも知れませんが、平林浩氏を今度の発表者としてぼくが頼んでもいいんじゃないかと思って、交渉したわけは、国分一太郎の自然科学的な認識というものを、おそらく彼は、理解してくれているんじゃないかなと。

『宇宙をつくるものアトム』(『少年少女科学名著全集4』) 

それで、このことについて、もうちょっと、言っておきますと、これは、先ほど言いました板倉聖宣の本の中で、国土社から出ている本が1冊あるのですが、それに、国分一太郎が、編著者として出てくる。国分一太郎が、何で、板倉聖宣の、このような本に参画したかというところがちょっと分からない。『宇宙をつくるものアトム』(『少年少女科学名著全集4』)というこういう本です。そういう本の編者になっているんですよ、国分一太郎は。
 ルクレチウスと、ブラッグという方二人の大物の著、その隣のところに、国分一太郎編と書いてあるのです。どういうふうな関わり方をしたのか、平林氏にも聞いたのですが、平林氏もわからないという。一番聞いて分かるのは、板倉聖宣ですが、板倉さんは、その後、ぼくはご無沙汰しているから、聞くほど昵懇ではないのですけどね。
 見まごうことなく、国分一太郎編でしょ?しかもね、国分一太郎の写真まで載っているんです。
 二人のものを誰かが翻訳した。それを編者になって国分一太郎が出てくるということなのです。
 だから、平林浩氏を選んだというのは、平林氏は、この板倉聖宣のところでずっと仕事をした、今もまだ、そういうことをしている人ですからね、特に、最近、彼の目立つことは、例のクローズアップ現代に、科学のことで出たんです。実現する会の連中は、ちょこちょこと出ただけでしょというけど、とんでもない話でね、国谷と大分長いこと対談したということがあるんで、残念ながら、急だったので録画できなかったですけどね。
 どういうわけで、彼自身が文章を書かないで編者になったのかは、たとえば『愛の学校クオレ』なんかありますでしょ。そういうふうなものがあるんだけど、ここまでは思わなかったんですよね。それがそうなっているということから、今日は、どうしても、ぼくは、皆さんにね、とつおいつでもって話したかったことは、国分一太郎の自然科学的認識というようものに対する考え方ですね、そういうふうなものをということ。
 この本を貸してくれた山田英造氏(障害者の教育権を実現する会の事務局長)に、さっそくお礼状を書いておきましたけれども、やはりどうしても書かなければいけなかったことは、どこにどうやって関わったのかが分からないということね。
 「編」ということで、彼の文がないから、結局分からない。最後まで、わからないままなんですけどね。
 今挙げました国分一太郎のそれを、今まであまり人様が光を当てていない、メスをふるっていない部分のところで、皆さんにお伝えしておきたいということがあり、さらには、国分一太郎研究会との関連でもってね、この1冊、2冊目、3冊目とね、皆さんにちょっと紹介しておきたい思ったまでです。
 一応、あとで斜めにでも、これらに目を通してください。
 これが、ぼくが国分一太郎の自然科学的認識ということでね、そういうことで取り上げたものであります。以上で終ります。

《提案》「子どもの変容してきた姿について」          

                          中山 豊子(墨田区立業平小学校 1年1組担任)

 中山さんからは、韓国籍のお子さん、T・Sくんへの1年間の指導の経過とT・Sくんの変容が報告されました。

T ・ S くんは、広汎性発達障害、軽度自閉症の疑い、情緒障害、学習障害という診断があったが、両親の希望で、普通学級に入学。両親とも韓国籍で、家では皆、韓国語をしゃべっている。学区域外なので、送り迎えは、両親がする。教育熱心である。

(1) 児童の変容とその手立て
「児童の変容とその手立て」として、この子の全体的な様子、◇書くことでの変容、□話すことでの変容、◎指導の手立てが月ごとに報告された。

4月
自分の席をなかなか覚えず、座っても、すぐ窓や黒板に行く。「Sさん、ここの席にもどってください。」と言うと、素直に戻る。ただし、席を手でチョンチョンと押さえないと、分からない。
トイレが長い。1日の最初、トイレに入るのだが、三十分は出てこない。そのため、対面式は出られなかった。
◇文字は、「写すこと」だけはできる。しかし、書き順は、正しくない。意味は全く分かっていない。
口おうちでは、韓国語で生活をしているので、日本語はぜんぜん通じない。
◎文字をなぞらせる。◎やることを、順番に書いていく。
◎水曜日の 5 校時を補習に当てる。毎日、親向けに連絡帳に書く。

5 月
一年生と遊ぼう集会、トイレに入っていて出なかった。
コミュニケーションができないので、足がぶつかっただけで、パンチをする事件が起きる。
でも、良かったのは、なぜパンチしたのと聞くと、
「足をふまれたから」
「あなたは足をふんだの?」
「いやぶつかっちゃっただけだ」
「ぶつかっちゃったらどうするの?」
「あやまる」。
「あやまるのよ」と言ったら、
「ごめんなさい」。
「Sくんも、パンチしたからあやまるの」
と言ったら、
「ごめんなさい」。
「じゃあ、あやまったからゆるします」
って言ったら、「あやまる」ということを覚えた。
Sさんの中には、あやまれば人は許してくれるということが入ってなかったのが、ここで、あやまったら許されるということを学ぶことができた。

◇文字は一文字も書けないので、「なぞり書き」をさせる。「みかんみたい」となぞり書きで書いたので、赤ペンでほめる。
口意味が分からないが、よく手を挙げる。一応、指して、うーんと思うのだが、「何々なのかな?」と言うと、「はい!」と言うので、「ああ、じゃあ、そうなのね」といった感じ。
◎名前を呼ばれたら「はい!」とかわいく返事するので、「元気がよくていいですね」とか「明るい笑顔ですね」とか、とにかくほめた。そうしているうちに、まわりの子どもたちも、Sさんは返事ができるとか、笑顔がかわいいなど、認めるようになっていった。

6 月
グループ活動に慣れてくる。暴力を振るわなくなった。
◇黒板の字を写すようになる。「しそみたい。クローバーみたい。」など写すだけでも、赤ペンでほめる。
口聞いたことを、ただオウム返しに言っているだけでも、正確にくり返すことができることをほめる。
◎当たり前のことでも、できたらほめる。ほめる回数を多くしていった。

7 月
プ ールが大好きで、楽しんでいる。プールで追いかけごっこをするなど、友達とも楽しめるようになった 。
◇文章は、自分で考えて書くことはできないので、でも何か完成させたいのだと思う。文字は書きたい。隣の子の文を写していた。
口しゃべることは、助詞が変だが、何だか意味が分かるようになってきた。
◎友だちの文を写したねと分かるのだが、そういう文でも、花マルをあげて認めるようにした。
8 月
夏休み中、両親の指導で、絵日記を書きあげた。
◎発達障害の子をどう教えれば効果的か先生も一緒に聞いてください、というご両親の希望もあり、療育園に一緒に行って、心理士の話を聞いた。
Sさんは、療育園に2ヶ月に一度通っているのだが、前に比べると、とても落ち着いてきていて、伸びがあるというふうに言われて、ご両親も喜んでいた。

9 月
学童でも仲間が増えてくる。
◇自分で文字を書こうとし始めた。正しくはないが、何か意昧が分かりそう。しかし、詩などは全く書けない。
口「~は、ーですか ? 」と聞いてくるようになる。「つぎは、5時間目ですか?」「5時間目は、算数ですか?」という、ただそれだけなのだが、
「そうですよ」
「はい!」
という感じで、何となくコミュニケーションがとれそうな感じになってくる。
◎まちがってもバツは出さない。言い直しさせて、「あ、よく分かったね」とほめる。

10月
クイズ作りも、一人ではできないが、グループの子に教えてもらって、グループとして発表ができた。
◇文は助詞が変だが、何だか意味が分かるようになる。
口感想はひとことだが言えるようになる。「おもしろかった」「おもしろかた」等。感想文としては全く書けない。
◎水曜の5時間目の補習。牛乳キャップでひらがな五十音、五十枚作り、一音、二音、三音と組み合わせて覚えさす。「め」は、これ、「あひる」はこれなど、組み合わせて覚えさせていった。
そのうち何となく、国語でやっている言葉が、四つつなげて意味がある等、だんだん分かるようになっていった。

11月
学芸会で、全体の中で自分の役を果たした。「リュックサックをしょう子」という役で、最初、自分がどこでセリフを言うのか分からないでいたが、何度か練習するうちに、この次にぼくだなということが分かってきて、言えるようになった。
◇舞台で大きな声で台詞を言えたというのが大きな進歩。
口球根の観察文は書けないが、体験文は、言い回しが変だが、何となく気持ちが分かるようになった。
◎書きたいことを聞き、加えたり、直したりする。

12月
上野動物園で動物に触ったり、えさをあげたりした。
◇動物園の絵の裏に、作文を書き、絵を見せながら発表した。作文は、うさぎのことを書いた。
口発表は、短い文なので、笑顔で言えた。いい成功体験になったと思う。
◎カタカナも牛乳キャップで練習する。

1 月
みんなで雪遊びをしたのが、とても楽しかった。
◇作文用紙一枚、自分の力で書いた。まちがいが多いが、気もちが伝わる。(→作品:「ゆきとなかよし」)
口音読も、つっかえつっかえだが、言おうとしている 。
◎国語の教科書に色分けしている。一対一で聞いてあげている。

2 月
平和集会、交通安全教室があったが、話をよく聞けていた。
◇交通安全教室の感想文を自分の力で書いた。まちがいが多いが、書きたい気もちを伝えようとしている。
口「わかんない。」とあまり言わなくなった。
◎何回同じことを言われても「はい。」と私は返事する。

3 月
「六年生を送る会」で、学年全体でそろってできた。
◇「一年間を振り返って」の思い出し作文を、初めは、段落なしで書いていたが、二回書き直して段落をつけた。(→作品:「たのしいたいいく」)
口複雑な話は言えないが、わかりやすい意味のわかる話ができるようになった。
◎プリント直し、ノート整理、「たぬきの糸車」の紙芝居発表と、話す活動と書く活動をつなげて成功した。

(2)話し合いから
 発達障害、自閉症の特徴について、平成23年からの学習指導要領の全面実施で、1,2年生では100時間は、作文に当てることができるようになること、かなり大胆に、作文の授業を展開していくことが可能なこと、類型的な詩をよしとする傾向が出てきていることなどなど、書ききれないくらいたくさんのことが話題となりました。
T・Sくんの4月の様子から比べますと、1年間のきめこまかでていねいな指導、あたたかい指導の中で、T・Sくん、ずいぶんしっかりと力を伸ばしてきていることが分かります。持ち上がりとのこと、2年生でのさらなる成長の様子をぜひ見てみたいなあと感じました。
 ・日記指導で、心に残ったことを書かせていき、題材を見つける力をつけさせていくといいこと
 ・作文の時間を時間割の中に設定すると、子どもたちにも教師にも構えがでてきていいこと
 ・優れた作品、または、一つでもここがいいなあと思われた日記の文章など、どんどん読んであげるといいこと
など、いくつものアドバイスが出ました。
中山さん、お疲れ様でした。
2年生での実践の報告が楽しみです!


powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional