『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

第524回 豊島作文の会 3月例会案内

第524回 豊島作文の会 3月例会案内

◆日 時 2018年3月10日(土) 午後2時~午後5時

◆場 所 豊島区立駒込地域文化創造館 (和室) 
     豊島区駒込2丁目2番2号 
*「JP山手線 駒込駅」(北口)より徒歩2分
     
《提 案》
(1)今年一年間の活動をふり返る(参加者全員で意見を述べる) 
(2)『解題 画文集・綴方作品の生まれた背景をさぐる(その3)
   ―国分一太郎発行の文集「もんぺ」「もんぺの弟」から―』
 (田中 定幸さん)
*1、2月例会の時に配られた田中さんの資料、あと『画文集 昭和の記憶』もお忘れなく。

2月例会報告
《参加》榎本 豊(司会)、工藤、曽我、片桐、田中、寺木、榎本典子(敬称略)

■2018年『作文と教育』6月号の「北から南から」にサークルだよりを掲載してほしいという原稿依頼が榎本(豊)さんにあり、榎本さんがまとめあげた原稿案の紹介がありました。豊島作文の会のスタート時から現在に到るまでの活動の様子を紹介する内容だったのですが、参加メンバーからあれこれ厳しい注文が出されて、榎本さん(忙しいのに申しわけない!)、原稿を大幅に書き直しすることに。6月号が出るまでは原稿の中身の公表ができませんが、6月号が出しだい『えのさんの綴方日記』等で紹介となると思います。

■一月例会で冬の部担当でレポートした寺木さん。前回は、「綴方」中心の報告だったのでということで、2月例会には、冬の部の「想画」に関してのレポートを持参。分析した内容の紹介がありました。
◇画文集に掲載されている想画303点のうち、冬の部には117点が選ばれ掲載されているのですが、冬の部で取り上げられている「題材」で最多のものが「労働・手伝い」等、働く場面を描いたもので、その数43点。「雪ふみ」(12点)、「雪道つくり」(2点)、「みちつくり」「雪かき」「雪かたづけ」等、このような作品が多いのはナゼなのか。
・雪国では、積雪のたびに雪を踏みしめて道を作るのが大切な仕事となる。
・その時に使うのが、わらで作った「踏み俵」(ふみだら)というもので、長靴をはいた足をこの「踏み俵」に入れて歩きながら雪を踏み固めるとのこと。
*このあたりの「雪踏み」の感じをしっかりとらえることができるのは、寺木さんが福島出身だからなんだろうなと感じました。
◇96ページの「こもり」、118ページの「砂利はこび」「助力」は冬期の作品ではないのではないかという指摘。
・「こもり」は、服装や地面の様子、履物(下駄を履いている)から見て冬ではなさそう。
・「砂利はこび」は河川改修工事など農閑期の仕事なのかもしれない。道普請のための仕事ではないかなど、いろいろな解釈が出されました。
・「助力」は何とも言えず不思議な作品。病気で寝ている子の頭に熱を冷やす氷が乗っている?田んぼで何かの作業。汗を流しながら荷物運びをしている二人等。冬の作品ではないことは確か。
◇寺木さんが「想画」を中心にして今回レポートし直してくれたおかげで、再度、作品の中に描かれているもの(着物、身につけているもの、様々な道具類)、家の作りや部屋の中の様子等を改めて見直すことができたと思います。
・スキーが自分たちの子どものころのものより、かなり立派そうに見えるとか、雪踏みをしている人たちがかぶっているかぶりものが面白いなど、様々な読み取り・感想が出されました。
・『画文集 昭和の記憶』は中身がたっぷり詰まっていることを実感。じっくり読み取り・解釈を続けて、考えを述べ合っていくことが大切なのだろうと思いました。

■1月例会では、田中さんが『解題 画文集・綴方作品の生まれた背景をさぐる―国分一太郎発行の文集「もんぺ」「もんぺの弟」から―』という24ページ分の資料を持参。時間が足りず、2月例会で改めてじっくり解説をしていただくということになりましたが、2月例会では32ページに増えた資料を配布。
◇「国分一太郎発行文集一覧」(下ページに記載)をもとに、国分一太郎がどのように文集作りにたずさわっていったのかを様々なエピソードを入れながら語ってくれました。
・「国分一太郎発行文集一覧」を見ていくと不思議なことに気がつきます。
・1932年(昭和7年)2月に尋5男組のために『がつご3号』を出します。この3号が出された時の国分一太郎の喜びようは、文集の「さいごに」の部分からひしひしと伝わってきます。《やっと三号ができた。手あかでよごれる程よんでくれ。今年は私の入営で思っただけの仕事をしないでくらした。でなかったら、三号だなんて今ごろ言ってるんじゃなかったのだ。この前の「詩・習作」ができて一ケ月。又「がつご3号」がでると思うと、やぎが子をうんだときよりもずっとうれしいぞ。この次はこんなにためておかないで二ケ月に一号ぐらい出したいものだ。そのつもりでがんばってくれ。(以下略)》
・ところがこのあと事件が。3月2日、教育労働組合結成を理由に村山俊太郎が検挙、免職。3月6日、村山俊太郎のすすめで結成に参加していた国分一太郎も検挙、取り調べ。免職にはなりませんでしたが、村長、校長等の厳しい監視下に置かれます。
・4月になり普通なら「がつご」の子どもたち、尋5から尋6に持ち上がるはずが、持ち上がることはできずに、尋常3年の子どもたちの担任になります。
・この年1932年(昭和7年)、尋3の子どもたちのための文集は一切作っていません。次の年、1933年(昭和8年)5月(?)になってはじめて尋4にあがった子どもたちのための『もんぺ1号』が発行されます。
*この辺の事情は、「面白いな!」(といったらマズイかな)と思いながら、田中さんの解説を聞いていました。
◇『もんぺ3号』のコピー「上手に 繪の書き方」が回覧で回ってきたので、全部写真に撮り、家で印刷をして読んでみました。
・1933年(昭和8年)11月3日発行の『もんぺ3号』の一部分とのことですが、国分一太郎が作成・発行した文集の中で、具体的にどのような指導を続けていたのかが、この資料を読むと大変良く分かりうれしく思いました。
                                (文責:工藤)

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