『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

国分家の系譜

国分家の系譜

*本来なら、要約なり抜粋なりでまとめていかなければならないのだが、ここでは、「国分一太郎文集」第10巻よりそのまま引用をしていく。

国分家の系譜
 国分家は、代々髪結いの家柄であった。400年まえ、江戸時代の国分甚左衛門門の名までさかのぼることができる。はじめ藩主の祐筆で、のちその髪結いになったともいわれる。山形県東根市の津河山のほとりにある先祖代々の墓所は、当時の土地の領主からあたえられたとつたえられている。

 父方の祖父国分勇治は、総領として家業をつぎ、妻イシとのあいだに長男勝太郎ー明治19 (1886) 年生まれーをはじめ二男四女をもうける。イシは東根町・俗称“ 城”の桶職人の家の出で、前夫とのあいだにもうけた久治をつれ子にして勇治と再婚した。

 勇治は世話ずきな人がらで、他人の借財の保証人となり、その返済の責め苦にたえかねて、みずから命をたつ。明治9(1896)年、長男藤太郎がまだ10歳のときであった。気丈なイシは、勇治亡きあと、おさない子どもたちをかかえながら、さまざまな仕事で日銭を得、よく家計をささえた。そのくるしい時期にあきなっていたという煎餅をつくるのし板とのし棒が、逆境の昔日をしのぶよすがとして国分一太郎の家にいまも大切につたえられている。

 一太郎の父藤太郎は、父親勇治の死後、東根尋常小学校四年をおえるとすぐ、家業をつぐため、西村山郡寒河江町 (現寒河江市)にあった佐藤福次郎の「福床」へ弟子いりする。以後、多感な青年時代を、修業のきびしさをあじわいつつおくり、わかくして世間の表裏を知る。

 一太郎の母デンは、明治21(1888)年、北村山郡東郷村 ( 現東根市 ) 野川の小作農家に生まれた。はらちがいの兄栴吉と妹マス、テルがあった。家計をたすけるため、尋常小学校一年をおえるとすぐ、子守り奉公、女中奉公に出る。はたらき者としてとおり、やとい主のひく手あまたであった。

 ひとりだちした藤太郎は、山張先の家でデンを知り、心のかよいあうなかとなり結婚する。明治42(1909)年、藤太郎は再婚であった。

 ほどなくふたりは、郷里東根町三日町の通称新道という新開地に借地してささやかな店をかまえた。明治30 年から40年にかけて、土地の葉タバコ生産に応じて山形地方専売局東根集納所ができ、その役所と国道をむすぶために道路をひろげたのが「新道」であった。

 その街道ぞいには、自転車屋、靴屋、石屋、綿うち屋、鍛治屋、芝居の興行主をかねた新聞売捌所などが軒をつらね、活気あふれる職人の町であった。

 藤太郎の店は「クリのいがのようにあらいひげでも、モモの皮をむくようにスウスウと剃る」 ( 随筆「ヒゲソリメイズン」から)腕のよさが評判をよび繁昌した。デンも見ょう見まねで庖を手つだった。

 藤太郎は生来、動植物に愛情をもつ人であったが、人があつまる床屋という仕事がらも手つだってアヒル、ニワトリ、小鳥、ヤギなどを飼い、シャボテンにいたるまで、たくさんの植木もそだてた。

 祖母イシも、店から出る毛髪を、かりた畑に肥料がわりにほどこし、せっせと桑や馬鈴薯などを栽培した。またイシは、おさない一太郎をしばしば山へ青もの ( 山菜 ) 採りなどにつれ出し、一太郎の少年期に大きな影響をあたえた。



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