『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

国分一太郎年譜 7 (60歳~69歳)

国分一太郎年譜 7 (60歳~69歳)

1971(昭和46)年 60歳
 教科書改訂を機会に、教科書作文教材についての徹底した研究をはじめる。このころはしずかに研究の日々をおくる。

 7月、日本作文の会編『読んでくださいおかあさん』(あすなろ書房〉の編集にたずさわる。

 この年「障害者の教育権を実現する会」の前身として発足した「大西問題を契機として障害者の教育権を実現する会」に入会。

1972(昭和47)年 61歳
 10月、両国公会堂で、東京都教組墨田支部教研集会の記念講演。能力主義、国家主義と実践的に対決するために、教室での具体例やとりくみの方法を自主編成の問題とかかわらせて話す。

1973(昭和48)年 62歳
 1月13日、なが年ともに作文教育につくした友、百合出版社社長後藤彦十郎をうしない、悲しむ。

 9月、南米チリ滞在中の長女ミチコ、軍事クーデターの混乱で音信不通になり、心配する。

 12月、9月ころから低血圧と蕁麻疹になやまされていたので、新評論の社長であった美作太郎の紹介で、国立第一病院で検査をうける。

1974(昭和49)年 63歳
 8月、長野県蓼科でひらかれた日教組の第1回「教師の力査を高めるための自主編成研究講座」の座長になり「読み方教育論、授業の形態」について講義する。この講座には、1984年夏の第9回まですべて出席し、国語教育について助言しつづける。

 9月、日教組の「中央教育課程検討委員会」(会長梅根悟)の委員になる。 ( 最終答申は1976年5月の「教育課程改革試案」として発表された ) 。

 この年、検定教科書の作文の項を「国語教科書に作文指導教材を入れるのは不安であるし、それをこなせる教科書会社の編集部もない」と批判し、注目される。

1975(昭和50)年 64歳
 2月、日本作文の会編『よい作文の書き方―なにをどう書いたらよいか―』 (全7巻、百合出版)の出版計画をたて、編集にもたずさわる。

 3月9日、東京都福生市でひらかれた「多摩子ども詩集の会」で講演。以後この会には、1984まで、ほとんどまい年出かけ講演する。

 4月22日から5月9日まで「中国日本友好協会」会長廖承志の招待で「日本文化界友好訪華団(第二次)」(団長安藤彦太郎、15人) の一員として訪中、旅行の途中で作文集2冊を手にいれる。

 5月、新日本文学会副議長。

 この年、部落解放文学賞の識字・記録文学部門の選考委員を杉浦明平とともにひきうける。

1976(昭和51)年 65歳
 5月、新日木文学会議長。以後1982年4月まで6年間つとめる。

 7月、月刊誌『解放教育』67号から連載「『綴ること』のために」はじまる(1980年3月まで) 。

 12月、全国解放教育研究会会長上田卓三の東京後援会会長になる。

1977(昭和52)年 66歳
 1月、中野重治が1977年度「朝日賞」を受賞。よろこびあう。

 かねてから新教科書教材を、真の子どもの発達という視点から研究し、批判しつづけていたが、この年『作文と教育』10月号で新学習指導要領を検討し「国語教育のおおきな、おおきなと、ちドさな、ちいさな」という立場から再度、批判する。また、生活綴方は、なぜ大事なのか、そこでなにを大事にしていかなければならないのかをかんがえつづける。

1978(昭和53)年 67歳
 2月『読売新聞』山形版連載記事「山形新人国記」に、三回にわたって紹介される。

 11月5日、仙台でひらかれた「スパル教育研究所」主催の『国語教育研究』の復刻を祝う会で記念講演。

1979(昭和54)年 68歳
 1月29日から3回、NHKテレビ「女性手帳」で「ズーズー先生、言葉の旅」と題して話す。

 7月、蓼科で日教組自主編成講座開催中、中野重治の死去を知る。9月8日、青山斎場での告別式で弔辞をのベる。

 10月、秋田県教育会館でひらかれた「北方教育創設50周年記念集会」に、滑川道夫、加藤周四郎ら旧同人20人とともに参加。現場教師との討論集会で「1980年以降のつづり方と教育はどうなるのか。自分で探究し次代につぐことが必要」とのベる。

 11月20日、新宿の紀伊国屋ホールでひらかれた新日本文学会主催「中野重治を偲ぶ文芸講演会」で、佐多稲子、水上勉らとともに講演。

1980(昭和55)年 69歳
 4月から1年間、東京都立大学人文学部で非常勤講師をつとめ、毎週木曜日、教育学特殊講義として大正、昭和にかけての教育実践にふれて話す。日高六郎、星野安三郎、鈴木祥蔵らとともに「国際人権教育研究所」の設立に参画。

 5月『解放教育』に「できあいではないたからもの」を連載しはじめる (1982年3月まで) 。

 9月、労音会館 (東京) でひらかれた「日本作文の会・創立30周年記念の集い」で講演。演題は「日本作文の会、30年をふりかえって」。また、会の創立当初から常任委員をつとめた功労により、綿田三郎、田宮輝夫らとともに感謝状がおくられる。

 おなじ9月「障害者の教育権を実現する会」主催のシンポジウム「こうすれば地域の学校へ行ける」の最終日に「差別に反対する教育」について講話。さらに、日本の児童詩教育を位置づけるために『日本の子どもの詩』 (日本作文の会編)の仕事に従事。

 この年、胃の不調をうったえ、暮れに「日本作文の会」亀村五郎の世話で慈恵会医科大学付属病院に入院。手術をまえに妻久枝にメモをわたす。「医師のつぶやくのをきくと、どうもガンだろうと思う。そう知ってがんばらねばならない (中略) ただひとつ心配なのは、他の内臓に転移していないかどうかということである。ただそれだけ。(中略)あと二年でよいから生きて仕事をしたい」とむすばれていた。胃の五分の四を切除。12月17日退院。その後、すきであったたばこを一時やめ、また、こよなく愛していた日本酒を焼酎のお湯わりにかえるなどして療養につとめる。


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