『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

国分一太郎年譜 6 (50歳~59歳)

国分一太郎年譜 6 (50歳~59歳)

1961(昭和36)年 50歳
 7月、第6回関東地区教育科学研究会で、遠山啓、柴田義松、真船和夫らと「教育における教科の役割」をテーマにしたパネルディスカッションに出席する。

 この年から、とかく誤解をまねくことのおおかった「生活綴方的教育方法」に再検討をせまられ、生活綴方運動再出発のために努力する。

 同月、安部公房ら14人と連署で日本共産党新綱領批判の「意見書」を党中央に提出する。安部らは除名処分をうけたが、佐多稲子らとともに「自己批判」を党機関紙によせ、党内にとどまる。

 『日本児童文学』1月号から10月号まで編集委員をつとめる。

 8月、日本民間教育団体連合会中国訪問団 (9月出発)をおくり出すにあたり事務局長として尽力する。

 前年出版の『日本クオレ』(小峰書房)により厚生大臣賞をうける。

1962(昭和37)年 51歳
 2月20日、痔の手術。

 8月、山形県東根市で第11回作文教育研究大会がひらかれる。その活動方針のなかで「今後の綴方=作文教育は、教育科学研究の動向、民間教育研究団体における研究の傾向などに歩調をあわせ、学校教育活動の全体のなかに正当な位置をもたせること、すなわち国語科教育の文章表現指導として位置づけること」をもりこんだ、いわゆる62年テーゼを発表、戦後の生活綴方運動の大きな転換となった。

 またおなじ8月、委員をつとめる「教育科学研究全国連絡協議会」が「教育科学研究会」と改称し、その第1回全国大会を「教育の現代化」をテーマにひらく。教育について総合的に研究していく
べき全国規模の専門団体にすべきだとのかんがえかたをつよく主張した結果であった。

 11月23日、大阪市中之島中央公会堂でひらかれた「国語教育研究大会」で「国語教育の現実像と将来」と題して講演。

1964(昭和39)年 53歳
 3月「日本作文の会」編集『子ども日本風土記』 (全47)を岩崎書店から出版する計画をたて、1965年2月の全巻完結まで精力的にとりくむ。同書は、1975年度の毎日出版文化賞特別賞をうける。

 5月、部分的核実験停止条約質成の党議に反して行動したことで、志賀義雄、鈴木市蔵両代議士が除名されたのをきっかけに、6月11日、かねて「党内民主化」などをかんがえていた渡部義通、
朝倉摂、出隆、国分一太郎、佐多稲子、佐藤忠良、野間宏、木郷新、丸木位里、丸木俊、宮島義男、山田勝次郎の12人は連署で要請文を党中央委員などに発送。党から査問通知があったが応ぜず、
10月14日、指導部批判の声明を発表。11月9日、中央統制監査委員会名で、自己批判した本郷新、宮島川義男をのぞく10人が除名処分をうける。

1965(昭和40)年 54歳
 『朝日ジャーナル』連載記事「草の根の教師たち」の企画に、当時東大教授の碓井正久らとともに協力。以後ほぽ五年、金沢嘉市、山住正己らと同誌の教育記事作成に力を貸す。また一時、書評委員もつとめた。

 11月発行の山形師範同窓会「昭五会」の35周年記念誌に文をよせる。

1966(昭和41)年 55歳
 5月「日本児童文学者協会」の理事をつとめる(1969年6月まで) 。

 この年7月末から20日間、ソ連作家同盟のまねきで、佐多稲子とその息子の窪川健造とともにソビエト旅行。モスクワで、ルムンパ記念民族友好大学に留学中の娘ミチコとおちあう。

1967(昭和42)年 56歳
 7月「全国解放教育研究会」が設立され、幹事となる。

 9月、日教組と「国民文化会議」の共同研研究に参加。その研究結果は、翌1968年6月『教育反動―その歴史鹿史と思想』(一ツ橋書房)として刊行される。

 この年、坐骨神経痛にくるしみ、そけいへルニヤも併発して、新宿区大久保の社会保険中央病院で手術をうける。第16回作文教育研究大会 (奈良〉を欠席したつぐないとして、いたみをこらえ、
はらぱいで文部省の「小学校教育課程の改普についての中間まとめ」について感想と批判をかき、『作文と教育』9月号に「走り書き的な感想と批判」という題で掲載した。

1968(昭和43)年 57歳
 3月末、東京大学医学部付属病院分院 (目白)でふたたびヘルニヤの手術をうける。

 4月、農林省中央農村青年研修施設 (1970年6月から農業者大学―東京都多摩市) の非常勤講師となり「農民と文学」の授業を1984年秋までつづける。

 7月『国語の教育』(国土社〉創刊。倉沢栄吉、滑川道夫とともに編集委員をつとめる。

 『朝日ジャーナル』連載「新評判教科書噺」の企画に山住正己らと参加。同タイトルを命名、またみずからも執筆する。

1969(昭和44)年 58歳
 8月16日、母デン死去。81歳。

 夏、かつて生活綴方事件で自分をおとしいれた警察官砂田周蔵の死を障害児教育の近藤原理から知らされ、東北の子の自立をねがってはじめた生活綴方運動が、どのようなカラグリで治安維持法違反に問われるようになったかを、自分に即したかたちでおおくの人びとにつたえようとちかう。それは、1982年から83年まで「小学教師たちの有罪」の題で雑誌『解放教育』に連載されたのち、死の前年の1984年、みすず書房から出版された。

 この年、解放教育読木『にんげん』 (全国解放教育研究会編) 編集委員となる (同書は1970年初版刊行) 。また日木作文の会編、学年別文詩集『自然とともに』 ( 全6巻、国土社)の編集に
たずさわる。

1970(昭和45)年 59歳
 1月から、70年代のつづり方では、人間理解を大事にしていかなければならないことを、さまざまな研究会や講演会、また文章で主張。文部省の学習指導要領の「書くこと」の内容の誤りにもするどく批判しつづける。

 11月26日、ヘルニヤのため東京大学医学部付属病院分院で三たび手術をうける。退院後、足腰がいたみ、アカザの幹を杖にしてあるく。

 12月、日教組の「教育制度検討委員会」(会長梅根悟)の委員となる。(最終答申は1974年4月「日本の教育改革を求めて」として公表された) 。


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