『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

国分一太郎年譜 5 (40歳~49歳)

国分一太郎年譜 5 (40歳~49歳)

1951(昭和26)年 40歳
 宮原誠一の陰の助力で、2月『新しい綴方教室』を日本評論社から出版。これと前後して、寒川道夫編、小野十三郎、国分一太郎、神保光太郎、豊島与志雄、中野重治、古谷綱武、宮原誠一、宗像誠也、百田宗治付記の『大関松三郎詩集山手』(百合出版、無着成恭編『山びこ学校』(青銅社)が出版され、この三冊は戦後の綴方運動にはかり知れない影響をあたえる。『山びこ学校』はのちに前書き坪田譲治、解説国分一太郎、装丁・さし絵箕田源二郎で百合出版から出版される。

 8月ころから、東洋書館にたのまれ、のちに『君ひとの子の師であれば』に結晶する原稿におわれる。

 8月、西多摩郡御岳山上でひらかれた一泊二日の作文夏季大学の講師として、吉田瑞穂、巽聖歌、上田庄三郎、松坂忠則、藤田圭雄らと参加する。

 こうした機運を背景に、9月1日、「日本綴方の会」を改称して「日木作文の会」が誕生し、その委員となる。このころから、綴方のことで全国各地を講演してあるくようになり「辛抱の必要な仕事」がはじまったとの思いをいだくが、この影響で各地に綴方のサークルが生まれる。

 おなじころ、児童文学者協会編『学年別小学生作文読本』(六冊・河出書諮房)『中学生作文読本』(一冊・同〉の編集委員となる。

 11月、日光でひらかれた第一回日教組全国教育研究大会にあわせて『教師の友』で特集をくみ誌上参加する。大会では夜、現場教師たちとつどう。この年「新日本文学会」の常任中央委員にえらばれる。

1952(昭和27)年 41歳
 3月、熱海でひらかれた第1回教育科学研究会全国連絡協議会の再建大会に参加。「児童文学者協会」主催の第一回全国文集コンクールの表彰式(朝日講堂)の記念講演を依頼するため、はじめて
一橋大学学長上原専禄を自宅にたずねる。5月、菅忠道らを中心に結成された「日本子どもを守る会」にくわわる。

 8月、岐阜県中津川市で第1回作文教育全国協議会。恵那の教師たちが編集した『恵那の子ども』 百合出版)や石田和男編『夜明けの子ら』(春秋社) などの出版をあっせんする。

 このころから同和教育にも関心をもち、各地をあるく。この年刊行がはじまった岩波講座『教育』(全八巻) の「日本の国語科」の執筆にとりくむ。

1953(昭和28年 42歳
 1月、高知市でひらかれた日教組第2回全国教育研究大会で「生活綴方的教育方法」が大きくとりあげられ、講師をひきうける。この大会以後、1985年1月の第34回札幌大会まで33年間、国語教育などの助言者をつとめ、全国の現場教師に、ふかく大きな影響をあたえた。

 5月、NHK のラジオ番組「やさしい教育学」で、東大助教授大田堯とともに「生活綴方のはなし」を放送。7月にウィーンでひらかれた第1回世界教員会議に日本の教師代表を派遣するための国内準備会事務局長をつとめ奔走する。会議には、無着成恭ら数人が参加した。

 またなん回かにわたり、サークル論を雑誌『知性』(河出書房)などにかく。

1954(昭和29)年 43歳
 この年、『作文と教育』などの教育関係誌に、教育一般および綴方教育関係の執筆をすることがおおかった。この年の前後から「新宿子どもを守る会」や、文京区の「生活をつづる会」のあつまりに出かけ、主婦たちと交流する。

1955(昭和30)年 44歳
 5月、日高六郎のすすめで、宮沢俊義と共著で執筆していた『わたくしたちの憲法』(え・堀文子)が有斐閣から出版され、第9回毎日出版文化賞をうける。また『鉄の町の少年』で「児童文学者協会」の第5回同協会賞を受賞する。

 8月、お茶の水女子大でひらかれた第4回作文教育全国協議会における合同討議 (乾孝、波多野完治、周郷博、高橋磌一、古田拡、宮原誠一、磯野誠一、上田圧三郎、勝田守一、矢川徳光、中野重治、司会滑川道夫)で「戦後十年作文教育の諸問題」の問題提起をする。

 この年から、新日本文学会の党員グループ責任者となる。また党本部の非常勤文化部員となる。

1956(昭和31)年 45歳
 12月、今井誉次郎、片岡並男、倉沢栄吉、後藤彦十郎、寒川道夫、巽聖歌、伊達兼三郎、鶴見和子、土岐兼房、藤田圭雄、柳内達雄、綿引まさ、滑川道夫 (司会) らと「作文教育の現状とこれか
らのみち」座談会に出席する (駿河台ホテル) 。

 前年出版の勝田守一、国分一太郎、丸岡秀子共編『おかあさんから先生への100の質問』(中央公論社) が、第10回毎日出版文化賞をうける。

1957(昭和32)年 46歳
 『日本児童文学』の編集委員をつとめる。(4月号から、58年4月号まで) 。この年から2年間ほど『教育科学・国語教育』に「国語教育の復興と前進のために」の執筆をはじめる。

1958(昭和33)年 47歳
 ほぼ一年間、長男真一、心因性の病気のため沼津の養護学校に転学。大すきな野球の新聞切りぬきなどをはりながら、まい日のように手紙をかきおくつてはげます。

 7月から、阿部知二・石井桃子らと共編の『雨の日文庫』(麦書房〉の連続刊行はじまる。

 9月、東京国立市公民館がら社会教育の講師を依頼され、以後何度もまねかれる。

 この年、道徳の特設など学習指導要領の改訂で教育論争おこる。

1959(昭和34)年 48歳
 この年の前後、教育、文学、主婦の生活記録運動などについて北海道をはじめ全国の講演旅行がおおく、過労のため、しばしばめまいにおそわれる。眼底血圧冗進による低血圧症と診断される。

1960(昭和35)年 49歳
 4月7日、父藤太郎死去。75歳。晩年は「おまえたちのいうような世のなか、なかなかこないではないか」とつぶやいていた。

 5月17日「安保廃棄・岸内閣打倒を要求する国民集会」および国会請願に、来栖良夫、土岐兼房らと参加。同20日「安保採択不承認、国会即時解散要求学者文化人集会」に、上原専禄、乾孝、
宮原誠一、古田拡、中野重治、高橋磌一、塚原健二郎、鶴見和子らと参加。

 10月、山形大学創立83周年記念式典で「教育功労者」として表彰される。

 12月10目、安保改定交渉の打ち切り請願書を、中島健蔵、千田是也、本郷新、三宅艶子らとともに両院議長に手わたす。

 このころから、保健婦の生活記録運動に丸岡秀子、石垣純二らとともに協力する。



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