『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

国分一太郎年譜 3 (20歳~29歳)

国分一太郎年譜 3 (20歳~29歳)

1931 (昭和6)年 20歳
 四月、短期現役兵として山形歩兵第32連隊に入隊。初年兵をかばって古参兵ににらまれることしきり。隊内で『教育・国語教育』『思想』『綴方生活』などを読みふける。8月末除隊、長瀞小学校に復帰し、尋常五年を担任。

 9月18日、柳条湖事件をきっかけに“満州事変”がおこり、一五年戦争はじまる。

 11月、村山俊太郎らが非合法下に結成した「山形県教育労働組合」(全国労働組合協議会日本一般使用人組合教育労働部山形県支部) に、村山のすすめるままにくわわる。

1932 (昭和7) 年 21歳
 3月2日、村山俊太郎、山形県教育労働組合結成の理由で検挙され、免職となる。3月6日、村山との関係から検挙され、取調べをうけるが10 日間ほどでかえされる。この年から、新潟の綴方教師・寒川道夫との文通しきり。

 4月尋三男子組を担任し、文集『もんペ』をつくりはじめる。

1933(昭和8)年 22歳
 5月、祖母イシ死去。83歳。

 秋田の『北方教育』 ( 成田忠久主幹・1930年5月創刊)
や、仙台の『国語教育研究』(菊地譲主宰・1932年4月創刊)、東京の『綴方生活』、『教育・国語教育』 ( 千葉春雄主宰1931年4月創刊 ) などに童謡や綴方教育についての論文をのせはじめる。また、子どもむけ雑誌『綴方読本』 (『鑑賞文選』の改題・後継誌 ) に、童謡や詩をつぎつぎと発表する。

 秋田市の魁新報社の講堂でひらかれた北方教育社主催の綴方教育講習会に参加。8月、北方教育社同人にくわわる。

 このころ、学級の子どもたちのために「つづり方いろはカルタ」を工夫する。この年の秋の飢饉による子どもたちの苦労に心をいためる。

1934(昭和9)年 23歳
 東北各地の教師たちとの交流さかんになる。

 この秋大凶作。11月、山形・宮城県境の関山峠を自転車でこえて仙台にいき「北日木国語教育連盟」結成準備会に参加。

1935 (昭和10) 年 24歳
 1月、「北日本国語教育連盟」が発足、機関誌『教育・北日本』を創刊。これを機に北方性教育運動の声たかまる。

 8月、仙台で第二回北日本国語訓導協議会。北方教育同人、加藤周四郎、鈴木正之らの主題発表のあと、東北方言の意義を強調した「北方に於ける言語教育の課題」を発表。また『綴方生活』7月号に、「国語実力の北方的工作――その態度―」を掲載。このころから、県視学、校長の圧迫つよまる。

 この年、ふたたび尋常三年を担任し、文集『もんぺの弟』をつくりはじめる。

 秋ごろ、村山夫妻、後藤彦十郎らと相談し、「山形国語日曜会」をつくって定期的な研究会をもち、その内容を、以前から発行していたガリ版雑誌『山形国語通信』にのせる。

1936 (昭和11) 年 25歳
 4月、理解ある長谷部庄平校長が赴任。心やすらぐ。

 8月、はじめて上京。そのあと『生活学校』(児童の村生活教育研究会編、1935年1月創刊 ) を編集していた戸塚廉らと「北海道綴方教育連盟」の講習会に参加するため札幌にいく。

 この年、長瀞尋常小学校に赴任してきた四歳下の相沢ときと知りあう。『生活学校』11月号に「もんぺの子供」が藤井吉治郎の曲とともに発表される。童話「株式会社」、「定着液」、「カギとハ
ガキ」などを書きためる。

1937(昭和12) 年 26歳
 6月13日、自分にかわって家業をついだ次弟正二郎、尿毒症のため死去。23歳。日ごろの疲労に衝撃がかさなって強度の不眠症におちいり休職。おりしも7月7日、盧溝橋で日中両軍衝突、戦争の勃発に焦燥感つのり、さらに肺をわずらって衰弱はげしく、死の恐怖におののく。

 菊池譲、ー成田忠久、村山俊太郎、佐々木昂らは『生活学校』誌上で全国に救援をよびかけた。

 また原稿用紙にうつしていた教育記録の一部を出版するよう村山俊太郎にすすめられ、自分で療養費を捻出したくて応ずる。遺著にするとの覚悟もあって、婚約者相沢ときの記録もいれて共著のかたちをとり、12月、扶桑閣から『教室の記録』の名で出版された。

 12月、千葉県市川市の小学校教師平野婦美子がおとずれ、その世話で岡市にあった式場隆三郎経営の国府台病院に入院。平野は入院費の一部を負担した。

1938 (昭和13)年 27歳
 1月ころから、式場院長のすすめで、作業療法として農村の子どものことを克明にノートにつづる。この記録は40年後の1978年6月に『昭和農村少年懐古』として創樹社から出版された。

 4月、式場院長から『教室の記録』の内容により、長谷部圧平校長、相沢ときともども3月末付けで免職になったことを知らされる。本の贈呈者のひとりにプロレタリア文学の徳永直がいたり、
むすめ身売りの悲惨さや国語国字合理化問題にふれた内容が「アカくさい」とされたのだった。突然のことにおどろき、怒りもしたが、耐え、ノートにつづることに没頭する。
 5月、1日に3、4時間ほどねむれるまでに回復し、生活のこともかんがえて退院。大森の平野婦美子宅に身をよせ、7月から、松永健哉、佐木秋夫らが創立した「白木教育紙芝居協会」につとめはじめる。しかし、国策紙芝居がふえるにつれ不満がつのり、秋口に退職。その直後、百田宗治にすすめられて百田主宰の『綴方学校』 (1937年1月創刊 ) の編集を手つだいはじめる。

1939(昭和14) 年 28歳
 1月、松永健哉の口ぞえで、南支派遣軍報道部につとめることになり、広東にいき宣伝班に属して、軍が管理するラジオの「子どもの時間」の番組をつくる。この年『戦地の子供』を執筆。また「小先生運動」、「作文教学法」などの紹介・翻訳原稿を内地におくりつづけた。

1940(昭和15) 年 29歳
 6月、式場隆三郎、木内高音の助力で、中央公論社から『戦地の子供』 ( 序文南支派遣軍報道部長陸軍歩兵中佐、吉田栄次郎、火野葦平、さし絵清水昆 ) が出版され、文部省推薦となる。印税の
うち八百円を郷里の父におくる。父は借金をかえし、店をたたむ。

 いっぽう国内では、2月6日、村山俊太郎が治安維持法違反容疑で検挙されたのを手はじめに、12月から『北方教育』、『生活学校』同人たちの検挙しきりで、生活綴方教育への弾圧がつよまる。



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