『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

国分一太郎年譜 2 (10歳~19歳)

国分一太郎年譜 2 (10歳~19歳)

1921(大正10)年  10歳
 尋常科五年。弟正三郎 ( 三男、第五子 ) 生まれる。
 このころ、ちかくで新聞店を経営する人がはじめた劇場に全国からやってくる活動写真、浪花節、義太夫、祭文語りなどの芸能にしたしむ。

1922(大正11)年  11歳
 尋常科六年。担任教師への反発もあって教師になりたいと思うようになったが、家業をつがねばならないことを思い、なやむ。いっぽうで、父のあとをついだら、店のあがり桓 (かまち)に講談本でもおいて“床屋図書館” をつくりたいと夢みる。

1923 (大正12)年  12歳
 高等科一年。担任の工藤礼一郎は、白木史を勉強している、当時としては進歩的な先生で、意味がよくわからないままに「唯物論」「唯心論」などのことばが印象にのこる。

1925 (大正14) 年  14歳
 妹ハル ( 三女、第六子〉生まれる。

 三月、東根尋常高等小学校を卒業、身体健全、品行方正、学業優秀で郡賞をうける。工藤礼一郎、父の友人の松田恵吉をはじめ、周囲の人びとが進学しないことを惜しんで、山形県師範学校受験をすすめる。

 次弟正二郎が店をつぐ決心をし、また偶然にこの年の4月1日、制度がかわって高等科二年卒業と同時に入学できることになったので受験。身長が規程にたりなかったが、同郷の先生の口ぞえで合格する。寄宿舎が前年末焼けて通学がみとめられたということも幸いして父のゆるしが出、6月、本科第一部に入学する。

 県から学資金月10円をうけて、奥羽線東根駅から山形駅まで列車通学をはじめる。イシが朝はやく家を出る一太郎のためにまい日朝食をつくる。それはのち「たわしのみそ汁」という作品になる。

 この年、工藤礼一郎から、私立池袋児童の村小学校 (教育の世紀社が1924年に創設した新教育の実験校) の関係者の手で編集された『鑑賞文選』 (1925年6月創刊 ) をもらって読みふける。

1926 (大正15・昭和元 ) 年 15歳
 師範学校二年。デュマの『椿姫』を読み、自分の人間の見かたのせまさを思う。

1927( 昭和2) 年 16歳
 師範学校三年。妹キヨ子 ( 四女、第七子〉生まれる。

 このころから島木赤彦に傾倒し、校内の「曙短歌会」にくわわり、土地の歌人で『アララギ』同人でもあった結城哀草果の指導をうける。この年の4月に専攻科に入学してきた22歳の村山俊太
郎と知りあい、同学年の石垣貞次郎らとともに短歌同人誌『にひたま』をつくる。また郷里の中学生であった渋谷米三、菅江敏雄らと謄写版ずりの同人誌『青果』もつくる。

1928 (昭和3) 年 17歳
 師範学校四年。村山俊太郎にさそわれて前田夕暮主宰の「白日社」に入会、その雑誌『詩歌』に自由律短歌をよせはじめる。

1929(昭和4)年 18歳
 師筒学校五年。池袋児童の村小学校元主事志垣寛らがこの年の10 月に創刊した『綴方生活』 ( 翌年の10 月から編集の中心は小砂丘忠義にうつり生活綴方運動の母胎となる ) を知り、国語教育、綴方教育にふかい関心と興味をもっとともに、御用理論とは別な、民間の教育理論に耳をかたむけるようになる。

 この年、教育実習で高等科一、二年女子の腹式学級をうけもち、はじめての文集『まどゐ』をつくる。

 

1930(昭和5)年 19歳
 妹キミ子 ( 五女、第八子 ) 生まれる。

 三月、山形県師範学校を卒業。五カ年間無欠課無欠席で表彰される。成績優秀だったので付属小学校勤務をすすめられたが、家のことや、通勤、あるいは下宿の費用のことをかんがえてことわり、自転車でかよえる、となり村の長瀞尋常小学校に赴任し、尋常四年男組を担任する。

 当時、長瀞小は、島根の馬木小学校、三重の早修小学校とともに、想画教育の三大学校といわれ、その実践家、佐藤文利をはじめ、東海林隆など優秀な教師がいた。とくに佐藤との出あいは、綴方教育とともに想画教育にうちこむきっかけとなった。文集『がつご』をつくる。

 この年、「静かに読むものへの転向」を山形師純学校校友会誌『真琴』へ、教育実践報告を『綴方生活』へ投稿。



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