『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

これからも、元気で「語り部」を続けていってもらいたい

これからも、元気で「語り部」を続けていってもらいたい

これからも、元気で「語り部」を続けていってもらいたい
~榎本さんの報告『私を支えた平和教育』を聞いて~

 2016年(平成28年)7月20日(日)、山形県東根市の長瀞公民館を会場に、第12回 国分一太郎「教育」と「文学」研究会が実施された。ここで、榎本 豊さんが『私を支えた平和教育』と題して報告をした。このレポートはその報告を聞いての感想である。

 報告の前半は、榎本さんが新卒の教員として赴任した最初の地、豊島区での7年間の話。後半は、異動で墨田区に転勤となり、本格的に平和教育に取り組んでいった実践の報告。

作文教育との出会い
 榎本さんは、1969年(昭和45年)の4月、豊島区の池袋第三小学校に新卒教員として赴任をしている。この時行った学校が池袋第三小学校だったのが良かった。豊島区の小学校の中でも、この池袋第三小学校に赴任したことが、榎本さんにとって大きな転機となっていく。
 この当時、豊島区は、東京23区の中でも、教職員組合が、しっかりと活動を続けている区の一つだった。しかも、その豊島区の中でも「池三小」は、組合運動と教育研究活動がしっかりと取り組まれている、まさに「拠点校」だったのである。この小学校で、榎本さんは後々、彼に大きな影響力をもたらす何人もの人たちと出会っている。豊島区教職員組合の副委員長の鈴木宏達さんがその一人。日本作文の会の事務局長の片岡並男さんもまた然り。そして、榎本さんに、もっとも大きな影響を及ぼすことになる女の先生がこの学校にいた。この女の先生は、日本作文の会の会員であり、綴方理論研究会のメンバーでもあった。この先生の勧めで、豊島で作文教育を研究する「豊島作文の会」が結成される。日本作文の会が、まだ力を持っている時期で、榎本さんは、豊島作文の会、日本作文の会を通して、文章表現力を高める指導の腕をじわじわと磨いていくことになる。
 うらやましいなあと思うのは、この頃、やはり、この女の先生の紹介で、国分先生のご自宅で行われていた綴方の勉強会に榎本さんは参加をすることになる。榎本さんのあと、神奈川の田中定幸さんもこの勉強会(理論研究会)に参加するようになるのだが、なんともうらやましい。国分先生のそばで話が聞けるだけでもすごいのに、勉強会が終わった後は、国分先生の手料理で、お疲れさん会なのだというのだから!(私など、国分先生のすぐそばにいた経験は、ほんの一日か二日でしかない!)
 国分先生は日本作文の会の常任委員で、日本作文の会の全国大会などで、「平和教育と生活綴り方」分科会の世話人をしていたなどの関係もあり、「国分さんの追っかけ」になっていた榎本さんは、作文教育の力を磨きながら、平和教育に関しても、心が向いていくことになる。

平和教育との出会い
 報告の後半は、隅田区へ転勤してからの話になる。1976年の4月、墨田区の小梅小学校に転勤になる。今から40年前のことである。このあと、榎本さんは、35年間、隅田の人となる。
この墨田区も、榎本さんにとって大事な場所となっていく。墨田区は、江東区と並んで、東京大空襲で甚大な被害をうけた区だったからである。墨田区の最初の学校の小梅小学校。小梅小への通勤の時に通る言問橋。その言問橋の所々に、黒いシミがあったという。それが東京大空襲の時に、橋の上で亡くなった人々の死体の脂であったと後になって知ることになる。今はもう架け替えになって、新しい橋になってしまっているのだが、古い橋の黒いシミの部分は、区内の小学校などで保存をされているらしい。焼け死んだ人たちの脂の痕が残っていた、そのような区への転勤だったことになる。
 転勤した時期は、東京大空襲を経験した保護者がまだ残っているころであり、父母の中、近所の人々の中に戦争体験者が残っている時期であったことなどから、戦争体験を聞き書きする平和教育の実践が始まっていく。
今回、報告の時間は1時間。感想、意見交換は30分と予定していた。1時間では、榎本さんは、話しきれなかったのである。子どもの作品も、全文を読んでいくことがかなわず、要所の紹介になってしまった。榎本さんにしても、残念でならなかったことだろう。
 印象に残ったことの一つ。聞き書きがうまくできるためには、3つの条件がそろわなければならないという話。1つは、語り手の話が具体的で、分かりやすいこと。 2つ目は、聞き書きをする側の本人が、じっくり相手の顔の表情などを見て、ていねいに話が聞けて、それを再現できる力があること。3つ目は、それを応援する親や教師の励ましの力。この3つのどれかが欠けても、「ひとまとまりのきちんとした文章にはならない」のだという。この三つが墨田区には、そろっていたのである。
 一つ目に関しては、墨田の事情が関係してくる。墨田区では、年に数回「平和集会」が、小、中学校で実施される。東京大空襲を経験しているからこそ行われ続けてきた「平和集会」である。その平和集会には、東京大空襲や戦争体験者、原爆体験をした人たちが、「語り部」として墨田区の小、中学校に招待されるのである。2つ目の要素を支えるものとしては、榎本さんが、豊島で培ってきた文章表現力を育てる指導の仕方が効果を発揮していく。あと、3つ目に関連しては、墨田区の教職員組合(「墨教組」)の存在が大きい。「一人の子もきりすてない教育を」の理念のもと、「子ども・生活・地域にせまる反戦平和・反差別・解放の教育を」というスローガンを掲げて、ストライキも自前でやりきる、愚直なまでに、まじめな教職員組合である。もちろん、反動側からの攻撃もかかるが、保護者、子どもたちからの信頼は厚い。今はどうか分からないが、この頃の墨田区教育委も、同和教育や平和教育を大切にする進歩的なところだったようだ。
 加藤民子さんが、感想として話されたことが、とても印象に残っている。榎本さんが子どもの作文を読んでいく時に、活字を目で追うのをやめて目を閉じて聞き始めたら、子どもの作文の中身がすっと入ってきたというお話だった。音声で表現されたものを、目を閉じて聴いていくと、その良さ、楽しさがよりしっかりとつかめるのかも知れない。

語り続けてもらいたい
 榎本さんが、墨田区に転勤になったのは、「運命」に近いものがある。というよりは、実は墨田区の教職員組合が、榎本さんを招いたといっていいだろう(この辺の詳しい事情は、いつかまた、榎本さんから聞かせてもらおうと思う)。
豊島でもそうだが、墨田でも、榎本さんは、組合で活躍をしている。「週刊墨教組」に、作文指導の進め方、平和教育の取り組み方などを伝える「はじける芽」の担当として、情宣関係で特に活躍されていた。
 墨田には、面白い人たちがたくさんいた。支部長の内田宜人さん、長谷川正國さん、永易実さん…もっとたくさんの名前を紹介できなければならないのだが、脳が委縮を始めているのか名前が出てこないナ。墨田で出会った人たち、教職員だけでなく、保護者や教え子たち等の人物評、エピソードなど、榎本さんにとっては、語り出したら切りがないくらい、面白い話が山ほどあるはず。
今年(2016年)の11月には、71歳になる榎本さんに、どんどん語り続けてもらいたい。元気で、「語り部」を続けていってもらいたいと思っている。
                       (豊島作文の会:工藤  哲)

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