『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

『第一回作文教育協議会(中津川大会)へ到る道』(7)

『第一回作文教育協議会(中津川大会)へ到る道』 (7)

6 『作文と教育』No.6 2月号(1952年2月20日発行)を読む
(1)「作文と教育」No.6(資料18)は、前号(1951年12月1日)から2ヶ月と20日後の、1952年2月20日発行である。

(2)表紙(資料18-右-)に、―「作文研究」改題―ということわりがあり、誌名が『作文と教育』になっている。

(3)発行が、双龍社の佐藤末吉から、百合出版KKの後藤彦十郎に代わっている。(資料19)

(4)最終ページに、「この雑誌を毎月出すために」という国分一太郎の文章が載っている。
(資料19-右-)
①「わたくし個人のこと」とことわりながら、文集や、はげましや、問い合わせの手紙等があっても返事もできずにいたことを詫びた後、
「けれども、それよりもすまないことは、この雑誌を、テキパキと発行するように来栖君をはじめ在京のみんなと努力しないことでした。心には思いながら、ダメになっていたことでした。」
と書いている。何やら「事情」があったようである。
②「でも、こんどは、わたしたちの友、後藤彦十郎君が、腰をすえて出してくれることにきまりました。どうか、これでおゆるしを願いたいと思います。」
と続く。

*発行者を百合出版の後藤彦十郎に託す、ということに関しては、作文の会の中で、あれこれ議論、模索があったのだろうが、そのへんの事情は、よく分からない。いずれにしても、国分一太郎がたいへん喜んでいることだけは確かのようだ。

③そして、国分一太郎の訴えが続く。
「彼の乏しいパンを今より小さくへらさないために」
「よけいな金を送れとはいいません。とどいた雑誌の代金だけを、うんとすばやく送ってほしい」
「この雑誌を毎月出していくために、みなさんのまはだかの友情にすがりたい」
「こういうしごとをつづけていくことへの歴史的な理性に、かたい握手をおくりたい」

*国分一太郎が、13人の編集委員のなかの一人として、いよいよ本腰を入れて動き出そうとしている、そんな感じである。
(5)いずれにしても、誌名が『作文と教育』に変わり、誌代(同人費)が50円から30円となり、ページ数も、これまでの64ページから半分の32ページに、一新(?)。

(6)「あとがき」(資料19-左-)を読む。

★雑誌のページがうすくなったけれども毎号確実に出るようになったので、その点では、今まで励ましてくれ、叱ってくれた同人各位におわびができると思う。ここまで来たのも、編集委員の方々と、百合出版の後藤君の熱意からである。

★雑誌のスペースがつまったのでみなさん方の原稿が十分掲載できない場合もあるが、それにこりずどしどし御寄稿をこう。
 なるべく短い原稿で、要点をつかんで書いていただきたい。限られた長さの中で、いうべきことをてきぱきと書きのべるという、綴方の技術的訓練は教師のためにも必要である。

★どうしても同人を現在の三倍にしたい。一人が二人を獲得していただきたい。そうでないと雑誌の採算がつきません。一人があと二人の仲間をつくっていただきたいことをとくにおねがいする。

*署名は、(来栖良夫)である。

*「雑誌のページがうすくなったけれども毎号確実に出るようになったので」と来栖が書いているが、この後、ほぼ毎月の発行が守られていくこととなり、来栖の念願がかなっていく。

*それにしても、あれだけ欲張って《募る》文章を書いてきた来栖良夫の書きぶりが…。

 なるべく短い原稿で、要点をつかんで書いていただきたい。限られた長さの中で、いうべきことをてきぱきと書きのべるという、綴方の技術的訓練は教師のためにも必要である。

なんて、本当なら書きたくなかったろうね。
「欲張り」来栖を通したかったろうにと思う。


次の(8)へ!

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional