『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

『第一回作文教育協議会(中津川大会)へ到る道』(6)

『第一回作文教育協議会(中津川大会)へ到る道』 (6)

5 日本作文の会編集『作文 先生と生徒』No.5(1951年12月号)を読む             
(1)「作文 先生と生徒」(12月 1951 No.5)が12月1日に発行となる。 (資料16)
前号から3ヶ月以上がたっている。創刊からは、一年と1カ月。

(2)「日本綴方の会」が、この号より「日本作文の会」と改称。

(3)会の名称、誌名が変更になっただけではなく、この号では、いくつかの変更点(改善点)が見られる。
①「研究 小・中学生の文章」(これまでの「作品研究」にあたるもの。この号では、一挙に29ページに増えている)の<評>が、分担制(・のぐちしげお ・柳内達雄 ・今井譽次郎 ・堀山欣哉 ・来栖良夫 などの名前が見える)になっている。

②「全日本文集展望」も、〈担当 本誌編集委員〉という文字が入り、野口茂夫、KKB、国分一太郎、堀山欣哉、今井譽次郎、来栖良夫 で分担して、評が書かれている。

③「編集後記」(資料17-左-)で、これまで(K)だけだったものが、(来栖)、(H)等、複数名になった。分担制が進んできているということか。

*①~③は、これまで来栖ひとりでやってきたものである。

(4)最終ページに、『「日本作文の会」として再発足(事務局)』(資料17-右-)という記事が載っている。
それによると、会のさらなる発展のため、
①「日本綴方の会」を「日本作文の会」と改称すること
②同人誌「月刊 作文研究」を「作文」-先生と生徒- と改題すること
③同人誌の編集に関しては、この号(十月号)より編集委員の合議によって具体的な編集プランを設定、毎月確実な発行を続けることになったこと、
そして編集委員の紹介。

・今井譽次郎(東京西多摩郡西多摩小)      ・吉田 瑞穂(同杉並区 杉並第七小)
・国分一太郎(作家・児童文学者協会)      ・寒川 道夫(武蔵野市明星学園小学部)
・柳内 達雄(東京世田カ谷区代沢小)      ・野口 茂夫(東京台東区小島小)
・小山 玄夫(東京学芸大附属小)        ・佐藤  茂(吉祥寺成蹊学院小学部)
・堀山 欽哉(東京学芸大泉附属小)       ・大江田 貢(東京杉並区杉並第七小)
・大西  貢(吉祥寺成蹊学院小学部)      ・望月  努(杉並第九小)
・来栖 良夫(児童文学者協会・教育出版株式会社編集局)
*全部で13名。(事務局高畠記)とある。いよいよ「日本作文の会」として、本格的な動きがはじまるのか。

(4)蛇足みたいなものだが、
事務局体制、編集委員体制が動きだしたばかりからなのか、この 《日本作文の会 編集 『作文 先生と生徒』No.5、12月号》は、「十二月一日発行」なのだが、
目次ページ(資料16-左-)では、「1951年10月号」とあり、
(事務局高畠記)でも「十月号」となっており、
「編集後記」では、来栖良夫が「日本作文の会として再発足第一回の十一月号です。」と書いている。

分担、未だうまくいかず。順調に動き始めるまでには、もう少しかかりそうみたいである。


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