『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

『第一回作文教育協議会(中津川大会)へ到る道』(2)

『第一回作文教育協議会(中津川大会)へ到る道』 (2)

Ⅱ 復刻版「作文と教育」を読む

1 創刊号を読む
(1)創刊号の表表紙の裏(=「表紙2」)に、
①『日本綴方の會』とりきめ
②『月刊 作文研究』への原稿と文集、生徒作品などを募る (資料1-左-)
 という文章が掲載されている。

『日本綴方の會』とりきめ
一 「日本綴方の会」は作文を中心とした教育研究の会である。
二 日本綴方の会同人は全国小・中学校の教育実際家を主体とし、  また会のとりきめに賛同する人々によって構成される。
三 会は、機関誌「月刊 作文研究」の発行、その他必要な仕事を  通して、全国各地の実践研究の交流をはかりつつ、教育文化の  確立のためにつとめる。

*一~三で、明快に、会の役割、機関誌発行の趣旨が語られている。四、五は省略。

『月刊 作文研究』への原稿と文集、生徒作品などを募る
△実践研究記録、諸調査、地域活動の報告、教育生活ルポルタージュ、感想、論説などの御寄稿をつのります。枚数や内容や表現にこだはりなく、ふるつて御執筆をお願いする。特に〆切日は設けません。
△教室文集、地方発行の諸パンフレット、雑誌などの御送付をおねがいします。毎号の誌上でご紹介します。文集にしない作文原稿を批評を加えてお返しすることも致します。但し返信料をそえてください。
△創作、詩、童話なども御寄稿ください。

欲張りすぎではないかと思うくらいの書きぶりに興味をおぼえた。

 だが、創刊した「月刊 作文研究」誌上で「全国各地の実践研究の交流」を、何としても深めていきたいとする、熱い思いが伝わってくる文章である。

(2)「月刊 作文研究」No.1の目次(資料2-右-)を見ていく。
①『綴方教育運動史上に於ける「赤い鳥」の意義』と題して、滑川道夫が論文を書いている。

*「赤い鳥」が綴方教育運動の中でどのような役割を果たしたのか、そして、どのような限界をもっていたのかといったあたりを取り上げている面白い論文なのだが、今の私には、とても手に負えないテーマなので、役に立ちそうなことを一つだけ。

 この論文の中に、「赤い鳥」に掲載されている「姉さん」(小学校尋六)という作品と、それに対する「三重吉選評」が紹介されている。

*雑誌「赤い鳥」を目にすることなど、めったにないと思うので、この「姉さん」という作品と「三重吉選評」を、資料として掲載した。雑誌「赤い鳥」の中でどういう作品が取り上げられていて、どういう「選評」が行われていたのか、イメージを持つことができるのではないかと思う。

「姉さん」  茨城県東茨城郡吉田小学校尋六 市毛 道也

 姉さんは、隣村の大百姓へお嫁にもらはれた。いったばかりの頃は、何ともなかったが、一年ばかりたつたら、それからは家へ來るたびに、よまいごとばかりしました。二年目のお正月に泊りに來たときも「手拭一本くれるでなし、御飯だって、みんなのお給仕がせはしくて、自分ではろくにたべられないし、それで朝から晩まで牛か馬のように追ひ使はれて、それに千代子さんだつて、とし子さんだつて、意地ばかり惡くて、ほんとにひどいよ」とよまいごとばかりしました。「しんしょばかりよくても駄目なもんだな」と母さんは泣きかゝつた顔で同情しました。

 その年の春、暖かくなつた頃、私はある日曜の朝、九時頃から油かんをさげて、自分の村から、姉さんの村を通つて、町へ石油を買ひにいきました。そして姉さんの村の村社のそばまで来ると、だれか後からよんだやうなので、ふりかへつて見ると、両がはがずつと山つゞきで、杉が小暗くおいかぶさつてゐるその道のむかうから、手拭をかぶつた姉さんが、どろにしたもゝひきで、こつちへかけて来ます。私は立ちどまつて待つてゐました。「おまへが山道へはいるまへに、姉さんは田ァ掘りしながら、おまへの通るのを見てゐたの。それで今用があつてとんで来たんだが」と言つたが「油買ひにいくの。お金はいくらもつて来て」ときくので「油三十銭と、だちんを五銭もらつて来たの」といふと「そんなら姉さんはお腹がすいて仕事ができないのだがな。けさだつて御飯を一ぱい半くらゐしか食べないんだもの。だからお前の分五銭と、姉さんの分五銭と、十銭にして、そこからお菓子を買つておいでよ。そして二人で食べようよ」と私の前へしやがみました。「だつて多くつかつて母さんにしかられたらどうしべ」「大丈夫だよ。姉さんかせめたからと言ひば、おまへはおこられないもの。だから早く買つておいでよ。すぐ田んぼへ引きかへさないとみんなに又悪いのだから」とせきたてます。私は仕方なく、そこからすぐそばの村社の前にある一軒家のお菓子屋へいつて、駄菓子を姉さんの分だけ、五銭買つて来て、「おら町へいつて別のものを買ふから。お菓子はいらないよ」と袋ぐしやりました。すると姉さんは、「一人でたべてゐて、人に見つかつたらおかしいもの。おまへもおたべよ」と言つて、無理にお菓子をもたせたので、二人で道ばたへ腰かけたが、私はたべたくないと言つて、そのお菓子を姉さんのひざの上にのせてかへしました。別れぎはに「父さんにな、一日でもいゝから、せはしくても、手伝いに来てもらひたいつてな、さう話しておくれ」と言ひました。「うん」と返事して町の方へ歩き出したが、姉さんがかはいそうになつてお菓子を十銭がな買つてやればよかつたと後悔しました。

 それから幾日かたつた、ある晩のことです。兄さんがしょんぼりした様子で私のうちへ来て「たみ子日ぐれ頃から、どこかへいつてしまつたが、こちらへ来てをりやすめえか」と言ひました。母さんは、さつと顔色をかへて「家へは来やせんよ。それでは川の中か井戸へでもはいつて、死んぢやつたんだねえか。ほんとに家へ来るたびに、よまいごとばかり言つていたもの。×さんも今すこし、かげにまはつてなり、めんどうを見てくれても、よかそうなものだが」と兄さんに、けんかごしになりました。

 私はそのとき「あゝ姉さん死んぢやつたらどうしべ」と泣きくづれました。父さんは、ぢきに弓張提灯にあかりをつけて、兄さんとさがしに出かけました。母さんと私は、その後で口もきけなくなつて心配してゐたが、そのうちに母さんは、はゞかりに外へ出ました。すると闇の庭のすみの方に、ふらふらするものがゐたので、「たみ子でないか」とどなると「あんまり意地がやけたからよ」と、よろけるやうにこつちへ来たので「何といふことだ、このくら闇を今ごろ」と台所へ引き入れたが、足は素はだしで、着物は古ぼけた野良仕事着で、体をふらふらさせながら、それからは「ふふふふ、ふふふふ」と気味のわるい声をたてゝ目をつぶつて夢中になつてゐます、私は何ともゆいず、たゞぶるぶるふるいるばかりでした。姉さんはそれから神経がわるくなつて、しばらく家に遊んでゐたが、腹の中へ子をもつてゐたので、そのうちに赤ん坊をなしたが、死んで生れました。そして姉さんもお産がわるくて死にました。私は今もあのとき十銭がほど菓子を買つてやればよかつたと思はれてなりません。

 

〔三重吉選評〕
 これは、人生のある一断面の記録として、この上もなく深刻な作篇である。姉さんが、お金持ちの百姓家へとついでも、家族の人々の不人情のためにただいつも、ぼろぼろの野良着物をきて、泥にまぶれて働くきりで、何等の和榮をも受けないのみか、食べるものさへろくに食べ得ないで肉體的にもおとろへつくし、つひに、半精神病者になって、お産で倒れるまでの、陰惨な生活の経過が、まざまざと實感的にせまつて来て、いかにもいたいたしい。道也君が、油をかひにいく途中で姉さんに会うところや、姉さんが空腹なために菓子をねだって買はせるところから二人が別れるまでのあの場面なぞは、敍寫として少しのたくらみもない、しぜんのままの展開でひとりでにしみじみ涙ぐましくなつて来る。道也君が母さんから托された金を使ふことを憚つてじぶんはあとでほかのものを買ふからと口実づけて五銭だけの菓子を買ふにとゞめたり、その菓子を、姉さんが分けてくれても、食べないでかへしたり、あとになつて、姉さんがかはいそうになり、十銭分買はなかつたのを後悔する心持なぞもいかにも純真でいじらしい。姉さんが別れぎはにお父さんに忙しい中を一日でいゝから手つだひに来てくれるやうにと、ことづけをする、たゞあれだけの事実にも、姉さんの対家族的ないろいろの気苦労そのものが、ありありと具象されてゐて哀れである。そのあとの、姉さんが家出をしたときいたそのときの、母さんや道也君のおどろきと興奮と悶愁も、よくにじみ出てゐる。姉さんが、裏庭で見つけ出されるところ、台所にひき入れられてからの情景なぞも、さも目に見るやうで悲惨である。何人も道也君があの言はゞ平つたい敍寫をもつてして、これだけの深刻な味ひを出しえてゐるところを注視されたいものである。今更ながら、与えられた事実の力とそれをうつすせい一ぱいの真実よりつよいものはないといふことが、こゝでもはつきり感得されるはずである。

*雑誌「赤い鳥」の鈴木三重吉に関しては、少しずつ研究を深めていきたいと思っている。

(3)「月刊 作文研究」は、定価50円で、ページ数64ページでスタートしているのだが、64ページ中、
「作品研究」に、15ページをさいている。(資料2-左-~5まで)
①児童の作品の1、2年、中学生のものは、割愛した。
②四年生の作品、「地しん」、「手術」と、詩の「腰岳」のみ、資料として掲載した。
③中学のものは、「作品評」のみだが、これを読んでいくだけでも面白いので、時間がありましたらあとでゆっくりどうぞ。
④なぜ、ここの「作品研究」に着目したか。
私自身、作品を読む力をつけていきたいという願いもあるからなのだが、それ以上に、この「作品評」、切れ味があっていい、説得力がある、のである。以下に、引用する。

△「地しん」
三年と五、六年の作文を次にまわした。けれどもこの「地しん」などは 三年生でもいちおう参考になるだろう。
「地しん」は題名の通り、朝地しんのあったときの、作者や家族たちのようすを綴ったものである。おどろきや、あわてる父母たちのようすなどもよくかけている。二度めのゆれで本のおちた所や、隣家のおばあさんのようすなど的確な描写であるが、「ヤカンがよけいなことをしてくれたといわんばかりに」といった観念的ないいまわしが、ちらちらとあらわれはじめている。文章の達者さのうわすべりで、こういう表現やいいまわしを防ぎとめねばならぬ時期であろう。

△「手術」
 次の「地しん」と比較して検討されたい。作者小田君が医者である父の「手術」をみる記録である。題材の特異さという点からいえば、「地しん」も特異であろう。しかしこれはかこうとする対象への作者の心構えがもっときんちょうした意欲的なものである。それから、ふだん医者である一家の生活の中にあるので、薬品の名とかそのほかの専門的知織 (?)があるので、比較的かきよい題材でもあったかもしれぬ。
  こうしたせんさくは無用としても、正確に順序よく手術のありさまをかいている。じぶんが手術をうけ、そのときの印象を記述した文とはちがったたぶんに容観的なかきかたである。こういう態度は、小学の上級でも中学でもいわれなければならぬ作文方法の条件の一つである。
  患者が手術室にはいってくるまでの準備のところなどは一見無雑作のようにかいているが、読むがわからすれば、これから行われる手術の場を想像され一種のきんちょうかんすらおぼえるほどである。手術がはじまるとき、メスがキラリと光って、「あっ切るな」と思うところなども自然のうちに光った描写になった。さいごの、手術の終ったあと患者ががぐうぐうねむっているというかきかたも印象的である。
 一つのことを順序よく正確にかくというかきかた、客観的な態度で綴っていくという参考にこの文章は役立つと思う。そうしてこういうものなら、三年生でも四年生でも五年生もかけるし、またかかねばならぬものであろう。だれにも書ける作文のサシプルの一つと考えていただきたい。題材や表現のことでなく、綴る態度のことである。

 「腰岳」
              佐賀県伊万里小学校
                    四年 田栗美知子
  腰岳は大きな美しい山。
  そのふもとを、汽車がはしっている。
  けむりを
  もくもく出してはしっている。
  みどり色の腰岳へ
  汽車がぐんぐんはしっている

   
△「腰岳」
「コシガタケ」とよむので あろう。腰岳とふもとを走っていく汽車を写したものであるが、最初の行の「腰岳は大きな美しい山」というかきかたは「ことば」ではあっても描写ではない。「大きな美しい山」を描写しなければならぬ。クレオンでたんねんに着色するように、「大きさ」や「美しさ」や、そのときの山の姿をかきとめねばならぬ。「大きさ」と「美しさ」をもっともよく印象づけられた事実をのベねばならぬ。概念の「大きさ」「美しさ」をときほぐして、一つ一つを具休的に記す指導をおこなわねばならぬ。汽車の走っていくようすは具体的にえがかれている。この文章の通り「もくもく」とけむりを出して、みどり色の腰岳へぐんぐんはしっていくというかきかたは自然で躍動的である。

(4)さらに「作品研究」を読み進めていくと、―「作品研究欄」について―というのが出てくる。
 (資料5の二段目のところ)

要約すると、次のようになる。

(ア)作品研究欄は、投稿された児童作品や寄贈文集の中から、編集部が、特に作文研究の上で必要と思われるものを掲載していく予定であって、投稿作及び文集中の最優秀作品を掲載するものではないこと。
(イ)投稿された児童作品に関しては、「児童作文特集号」のようなものを、年刊の形で、定期的に発行していく予定(方針)であること。
(ウ)作品研究欄では、取り上げる作品の「評及び指導」などを、できる限り、全国の同人にやっていってもらう方向にしたい。
(エ)しかし、「一号及び後の数号は主として時間的な事情が許さないので、編集部の単独意見となることをおわび申しあげる」(K)

となっている。

(5)つまり、後々は、多くの人たちに「作品研究」の「評及び指導」に携わっていただくが、今は「編集部の単独意見」(K)でやらせていただきます、つまり、今は、(K)ひとりでやっています、ということになる。

この(K)とは誰なのか?最初、分からなかったが、すぐに分かった。
①実は、「編集後記」(資料7-左-)にも、(K)の署名が出てくるのだ。
②そして、そのすぐ左を見ると、「編集代表 來栖良夫」の名がある。この(K)は「來栖良夫」なの
である。
來栖良夫…?あまり聞いたことがない。しかし、がぜん、興味が湧いてくる。

③気がつくと、「來栖良夫」の名は、この号の他のところにも出ている。目次(資料2-右-)を見ても
分かるのだが、「作文教育の方法」、「全日本 文集展望」というのも、来栖良夫が書いている。

「作文教育の方法  來栖良夫」
《日本綴方の会編集による「小・中学生作文集」三巻(第一出版株式会社発行)は、わたしたちの会のすべり出しに拍車をかける大きな仕事となった。…これに参加各指導者から、応募作品の総評を誌上で行へとの要望があるのであるが、参加作品の三千余篇を学校別にしてでもふれていくことは事情が許さないので、全応募作品に目を通し編集を担当した一人として感想を述べ責を果たしたい。》として、
・小学一二年生の作品について      ・三、四年生の作文について
・五六年の作品から           ・中学生の場合
に分けて、5ページにわたって論評を書いている。

「全日本 文集展望」(資料6)では、11編の文集を取り上げ、ピリッとした論評がなされており、来栖良夫の署名になっている。

④「編集後記」(資料7-左-)を再度、読む。
(K)、來栖良夫の熱気が、ひしひしと伝わってくる文章である。

★第一号を送る。この計画をはじめてから十ヶ月である。この間にたくさんの雑誌が姿をけしていった。日本綴方の会はこういう困難な条件を承知の上で、敢て全教育実際家の同人雑誌をもつ決意を強めた。雑誌の内容を昂め、しかもこれを続行する事は一にかかつて同人並びに支持者の熱意如何にある。何分の御協力をお願する。
★編集方針の一つは実践研究の発表で、本号鈴木道太氏の言の如く実践からうまれた理論を、再び実践にかえしつつ、地についた教育運動を展開せねばならぬ。もう一つには、教師大衆のきずいてきた教育運動の再検討で、まず「赤い鳥」からはじめた。引続き百田宗治、菅忠道、早川元治らの諸氏がこの検討に参加してくれる。地方教育運動も大小もらさずとりあげたい。原稿や資料紹介などに積極的に御参加を乞う。……。
★地域通信もどんなささやかなものでも報告をよせられたい。雑誌は全国をつなぐベルトである。大島氏の「恵那便り」はそういう意味でも貴重なものである。
★児童作品 文集は資料として会が保管している。そういうものがあったら、半紙一枚のプリントでも御送付を乞う。明二十六年度も「全国小中学生作文集」を発刊するので、今からすぐれた指導作品の保管、或は本誌上への発表などに心がけていただきたい。
★教師自らがペンをとり、じぶんの考えをじぶんのことばでかくこと、これは貴重な実践であり教育推進の原動力である。限られた雑誌のスペースであるが、全誌をそういう尊い文字と文章で埋めつくしたい。奮つて原稿参加をおねがいする。……。
★日本の村や町に、たくさんのすぐれた教師が映々と尊い仕事をしているのだが、どこのどういう人が、どんな仕事をしているのかわからないほうが多い。わたしたちの仕事は、そういう人々の仕事を知り意見をきくことである。同人及び読者各位 まわりのそういう方を御紹介いただきたい。会は全教育実践家と手をにぎりあわねばならぬ。
★十月末、日本綴方の会同人は三百名である。次号から氏名、住所を逐次発表していく。(K)

この書きぶりは、さきほど見た《『月刊 作文研究』への原稿と文集、生徒作品などを募る》(資料1-左-)の書きぶりと同じである。あの《募る》の文章も、来栖の文章なのだろう。

⑤「編集後記」の中の「同人一千名運動を!(事務局)」欄を見る。

 同人各位、全國の諸兄姉、「月刊 作文研究」は同人一同の心のつながりだけでうまれている。雑誌の原稿料は全くなく、編集部も勞力を提供し、双龍社佐藤末吉氏が、制作費を負担している赤字雑誌である。雑誌を維持するためには赤字を克服しなければならぬ。同人誌(誌代)前納のとりきめを速かにお願いする。……(事務局)

*(事務局)とあるけれども、読んでいくと、何やらこれも来栖良夫の文章のようである。

*いたるところに來栖良夫がいるというか、創刊号、來栖良夫だらけ、なのである。
そして、何やら、この來栖良夫、ひとりでがんばり続けている、そんな印象を受けてしまうのである。

*いずれにしても、こんな感じで創刊号、スタートである。

⑧「同人集」というところに、來栖良夫のことが書かれていたので、資料として載せておく。

  彼と私
                                              多田公之助

 何にしろ、来相良夫と綴り方は、私にとって、なつかしい思い出である。
 「少年少女の広場」は、安心して子供に与えられる立派な雑誌であった。いろいろな困難の中で、よくあれまで成長させて来たと思う。私にとっては、彼の私生活のすみずみまで、知っているだけに、このことは痛切な実感として、いつも敬意をはらっているところだ。事実、「少年少女の広場」が、一時の公式主義的スランプを脱し得たのは、彼が力を入れた、二十ページたらずの「少年文章欄」のためではなかったか。彼は、子供の綴り方をとおして子供の綴り方とともに成長し、そのままの姿態で「広場」のあり方を正して行ったわけである。

 もう、かれこれ十年の昔になるが、彼も私も、利根川下流の水田地帯で、小学校に勤めていた。「赤い鳥」が、その使命を果しおえて、百田宗治氏が、「工程」や「綴方学校」で、独自の信念を。世に問うていた頃である。彼は、子供たちの綴り方をもっては、しょっちゅう私の所へやって来た。私たちはお互いに作品を読みあっては、その方向を正しあった。そのほか、和泉田原之、石井理平治、瀧沢不二男等々の同士がいたが、地理的に、来栖と私が一番近くにいたのでその往来 (というより彼の来ること)も、一番多かった。彼は、私の家族の一員のようにかった。 私は彼の持って来た綴り方から、彼の文学青年臭をたたき出そうとし、彼は、私の学紋の作品から、理想主義的な甘さを払拭しようとした。

 生えぬきの百性であり、農民運動にも参加してきた彼 (そのころの木村良夫) が、子供の綴り方によって、その文学青年臭を一掃したとき、逆にまた、彼の指導する綴方は、地域社会の現実を核は確把する態度に於て、その文章表現の素朴純真な即物性に於て、私たちグループの目をみはらせた。

 彼は、いわゆる綴り方雑誌の類に、その子供たちの作品を発表することを、あまり好まなかった (というより、役は、子供たちとの毎日の生活にいそがしすぎた)ために、彼の指導した作品は、広く当時の綴り方人に知られなかったかもしらぬ。

 しかし、平野婦美子、国分一太郎などの人々とも知り合い、百田宗治、坪田譲治両氏なども、それぞれの選者の中に、彼の指導した綴り方をとり上げ推賞している。

 「生活学校」から「教育科学研究会」へ、私たちのグループの成長の先頭に立ったのも、また彼であった。「生活描写」の綴り方から「生活技術」の綴り方へ。そして、生活の最低必要量を充足しようとする「教育科学」へ。こうした発展が、どんな苦難の道であったかは、平凡社刊、「教育新事典」――生活学校の項 (滑川道夫氏)を見てほしい。昭和十六年の弾圧、それからひきつずいての彼の應召。私は戦災にあう。こうした事情のため、いま払の手元には、当時を語る何の資料もなくなった。

 なぜ、ことさらに、会の名に作文という言葉を排して、綴り方という言葉を用いるか。そんな理屈を、いってくれと、私は来栖にのぞまない。「少年少女の広場」の作品がいままでにもそれを物語っているしこれからも実際の作品で肝聞の批判にこたえるだろう。

                                   (茨城県にし茨城郡岩間小学校)

(資料7-右-) 私にとって、來栖良夫は、大きな発見である。


次の(3)へ!

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional