『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

『第一回作文教育協議会(中津川大会)へ到る道』(11)

『第一回作文教育協議会(中津川大会)へ到る道』 (11)

10 『作文と教育』No.10 7、8月合併号(1952年7月20日発行)を読む
(1)「作文と教育」No.10(1952年7.8月合併号)が出る。 (資料26)
「作文教育全国協議会」特集号となっている。
 
(2)巻頭言で、破防法の成立が報告されている。署名(K)。来栖?
(3)「第一回 作文教育全国協議会(岐阜県中津川市南小学校において)」というレジュメ掲載。
(資料27) 

(4)今井譽次郎が、「作文教育全国協議会の意義」(資料28~29)で、レジュメの解説をしている。
・今井譽次郎の岐阜自慢や南方自慢が面白い。

(5)あと、今井譽次郎の解説の中にも出てくる「峰地光重」の「綴方・あのころのこと」という文章が、この号にあったのでこれも資料として入れておく。(資料29~30)
昭和13年頃の、全国の綴方人の動向を詳しく伝えていて参考になる。

(6)(来栖)署名の文章、発見!『恵那の実践と文集「恵那の子ども」』(資料31-右-)
病気が直ったのか?

(7)『郷土の生きた姿を作文に―「綴方風土記」の企画にこたえよう―』という、後藤彦十郎の文章。これも面白いので載せておく。 (資料31-左-)

(8)さらに、最終ページ『全国各地「作文運動の動き(三)―機関誌を中心として― 編集部」
の文章に、(来栖良夫)の署名。(資料32) 来栖復活!


次の(12)へ!

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional