『「私」の国分一太郎研究』は、国分一太郎の生きた時代とその思想の研究であると同時に、「私」自身の自己史でもある。

「5分間メモ」教育実践法研究会 12月例会(資料2)

「心にキズ(瑕)を持ち、ヒビ(罅)割れ始めている子供たち」について

「心にキズ(瑕)をもち、ヒビ(罅)割れはじめている子どもたち」について 

◆突如、前後の脈絡もなく私語を発したり、不規則な言動やふるまいで授業を乱したりする子どもたち。

 感情の起伏ははげしく、気に障ることがあると決まって心は乱れ、静かにするように促しても聞き分けはなく、注意・叱責をすれば激高して暴れまわる。まわりにいる者を絶えず気にし、落ち着かず、行いに秩序がなくなっていく。相手の心を乱すか乱されるかして、学級内でまた混乱が起こる。パニック状態に陥ることも少なくない。このような子たちは、きまって、ものごとに熱心に打ち込むことはできず、その場その場を場当たり的にただただ自分のプログラムのみで動き回っている。およそ勤勉さの求められる活動(清掃など)にはほとんど関心を示さない。

◆このような子どもたちをどのように見たらよいのであろうか。わたしは「心にキズ(瑕)をもちはじめた子ども」「心にヒビ(罅)がはいりはじめた子ども」と見る。

 心は寒気にさらされ乾燥しヒビ(罅)われを起こし始める。「(比喩的に)人間の肉体・精神あるいは人間相互の感情において、完全な状態、健全な状態が保たれなくなること」「心などに受けた痛手」(国語辞典)なのである。

 わたしたちは、大人・子どもを問わず、心はキズ(瑕)つきやすくヒビ(罅)がはいりやすい。それは薄いグラスのようなものであり、薄氷のようでもある。小さなことと思えることに敏感に反応し、ヒビ(罅)がはいり、キズ(瑕)口を拡大していく。

◆なぜ、心にキズ(瑕)をもち、ヒビ(罅)がはいりはじめた子どもになっていくのであろうか。

 その原因のほとんどは家庭にある。

 一方の極には、教育に熱心さのあまりdoingマザー化した母親のもとで過度の要求を受け、軋轢と葛藤を背負い込み、父親も母親も一生懸命にがんばっているにもかかわらず、だれもが気づかないうちに目には見えない何かがしのびよっている。経済的には豊かに見えるところでも、交わされる言葉に温かみもうるおいもなくカサつき、価値観のちがいに加えて感情がすれちがっていく。家族の全員が「なんか変だよ」に気づくこともなく何かを見失いかけていく。あることをきっかけに仲たがいが勃発しトラブルは続いていく。担任の指摘やまわりの声に耳を傾けるどころか、うちではきちんとしている、学校で言うことを聞かないのは学校が面白くないからであり、あなたの指導が悪いから、の一点張りで取り付く島がない。下校し家に着くころにはよい子になり、学校に近づくにつれてまたちがった素顔が見えかくれする子らがなんと多くなったことであろうか。

 もう一方の極には、幼少のころに父親と母親のトラブルを目の当たりにして育ち、離婚により一人親の家庭となって困難がふりかかっている子がいる。そのようななかで不安化と寂しさをつのらせている子どもたちもまた少なくない。

 また、環境汚染、添加物摂取等の影響により脳内物質、中枢神経系に打撃を受けている子どもたちがいる。判断は慎重でなければならないが、このような子どもは、いまやどの学級にも存在し、統計上は6%にもおよぶといわれている。

 一歩踏み込めば、そこには一言や二言で言い表すことのできない奥の深い背景がある。概括的に指摘すれば、忍び寄る「こじれる人間関係」だ。競争原理と自己責任論の拡大などによって、こじれる関係は、家庭内はもとより一人ひとりの心の隅々にまで混乱は染み渡り、キズ(瑕)つき、ヒビ割れの連鎖となっていく。

 「その原因のほとんどは家庭にある」と先述したが、中には困難を余儀なくされた家庭もあり、問題の根元を安易に家庭のみに矮小化することはできない。

 さらにもう一つ、子どもたちに忍び寄る問題を指摘しなければならないことがある。

 不安化にさらされている子の周辺には、なんらかのプレッシャーをうけて、これさいわいにストレスを解消するかのような振る舞いで、病んでいる子をもてあそぶ(弄ぶ・玩ぶ)子どもたちがいる。キズついている子を相手に自らの鬱憤を撒き散らしふざけまわる子たちがいる。

 じつは、ここには一見何の関係もなさそうだが、およそどこの学級にも大なり小なり共通する現象がある。きまって大人の顔色をうかがい我が物顔にふるまったり、強い者の前ではフリーズしたようになったりする。

 わたしが指摘する現実とは全くちがう視点から考察するある人の著書のなかに警鐘乱打の文脈が並ぶ。

 「謙虚さを失い、ひたむきさをなくしたら…」「いわゆる『燃え尽き症候群』」と。

 「自分と向き合い、…思い通りにいかない現実に直面し、叩きのめされる。幾多の苦難を乗り越え、…自分を克服する素晴らしさを体験できるのなら……、だが、彼らの念頭にあるのは、……」と。
 このような環境のなかで少なくない子どもたちもまた心を痛めている。これはあまりにも問題が深刻で誤解を生みやすい。口頭で話題を提供することにしよう。

◆小・中・高校いずれかはわからないが入学式で「お見かけしたところすでに手おくれのお子様もいらっしゃるようで」とあいさつをした校長がいたという。

 子どもはランドセルの中に、見えない生活をぎっしりと詰め込んで-家庭内、地域などの人間関係で荷を背負い寂しさをつのらせて―学級にやってくる。承認も理解も得られず「心に港」はなく、大人不信をつのらせている子たちもやってくる。心の痛手は、わずかなことに敏感になり、人間相互の感情において円滑な状態が保たれなくなっていく。

 このような子どもたちは大なり小なり不安化にさらされ、情緒の安定を欠き、年度当初からザワつき、騒音の激しい学級となっていく。やがて騒音による難聴被害の教師も増加するのではないかと心配だ。

 経験を積んだ教師は、年度当初からこのような子どもたちを想定し対応するであろうが、偶然にも、さまざまな条件が一気に流れ込んできた場合は、苦慮に迫られる。

 心の準備をしてきたつもりの初任者も、このような状況の中に放り込まれ、学級はパニックへと進み、現場の洗礼を受けることになる。

 初任者を迎えた学年主任も自分の学級にも困難な子を抱え込みながら対応を迫られる。ここでもまたへたをすれば学年内の人間関係までもギクシャクしはじめかねず、問題を内包する。

 毎年同じ失敗を繰り返している教師は別として、初任かつ一年目の担任がこのような学級に遭遇し、うまくいかないとしても実践力のなさに論理をすりかえたりしてはならないことは言うまでもない。いまやだれが担任をしても、いつそのような状況に見舞われるか予想がつかなくなっているのだ。年度当初は静かに進行していた気配も、11月を過ぎるころにはいよいよ問題は表面化していく。こうしたなかで、いずれの子たちも、大なり小なり心のヒビ割れはそのキズ口を広げていく。

 昨今、2年間のスパンから、毎学年学級編制替えの地域が拡大した。これで保護者の苦情も一応は緩和することにはなった。しかし、管理職からの提言によって渋々始まったこのような対応策はさて…? 現場教師たちも求めたものであるがいかがなものであろうか?

 日本中の教師は、社会が二分されるような「いじめ・自殺問題」に直面し洗礼を受けた時期があった。その直前には娯楽・気晴らし本位の、人を虚仮(こけ)にしたふざけ番組とお笑い番組が連日連夜TVを通して家庭の団欒のなかに入り込み、子どもたちによって学級に持ち込まれていた。軌を一にするように、学級が荒れ、学校全体が荒れていった。

 いまは、以前とはちがったカタチで大人たちをも巻き込んだ不気味な状態で忍び寄る問題がそこにはある。あのころ、人を虚仮(こけ)にしたふざけとお笑いを持ちこんだ子たちが親になっている。 

 このように、現象的にはさまざまな要因によって、こじれる人間関係がヒビ割れとキズ口を広げ、子どもたちを追い詰めていく。一方の優越感と他方の劣等意識がみじめな感覚をも生み出し、一つの学級のなかでの子どもたちの認識の幅がよりいっそう拡大していっている。いつの時代も、子どもは社会を照射する鏡であり、学級は社会の縮図となっている。

 もはや学級担任一人の手で対応しきれないほどに深刻さを増してきている。

◆心にキズ(瑕)をもちヒビ(罅)割れを起こし始めたこのような子たちは、ほとんどといってよいほどにまともに文章を書かない。乱雑な文字で書く子も問題を抱え始めているが、まだましである。このような子たちからもまた見えてくるものがある。しかし、同じ環境のなかで、最低の5文すら書かない子たちがいる。自分が何をしたのか、何を見たのか、何を言ったのか、そのとき楽しかったのか、そうではなかったのか、などのことを書こうとすらしない。その延長線上には、意味不明のイラスト、落書き、ゲームに登場するキャラクターを描き並べる。その先には、問題の深刻さを物語る落書きを描く子までもいる。さすがに、ここまでに至る子は少なくなるが相当に問題をかかえていると見なければならない。5年、6年になっても同じような子がいる。

 ここにも格差拡大の問題(書く差問題)が広がっている。このような子たちに共通しているのは、自分自身にも現実生活にも決して向き合おうとしないことだ。

 そもそも「書きコトバ」というものは、習得の欲求も動機もあまりにも乏しく、かつ、つくり出しにくいものだ。書くことはテストの結果に結びつくこともなく、熱心に取り組む必然性も感じさせることができにくい。精神的に高次の活動ゆえに自分自身にも現実の生活にも向き合うことなどできるはずもない。書かせることによほど熟達した教師に遭遇しない限り書くことにはならない。書くことに熱心になることができないのだ。

 このような子どもたちの欲求はストレス解消の娯楽・気晴らし的な学級生活となり、学習に興味・関心を向けさせるのは容易なことではない。このなかの際立った子を「配慮を要する子」の範疇にいれて、みんなで見守っていこう式の対応も大事ではあるが、もっと積極的なアプローチを考えなければならない。まさしく、ここは教師の腕の見せどころということになるであろう。

 以上のような現状認識なしに学級経営・学級づくりをし、30年も同じことを繰り返しているとどのようなことになるであろうか。あれもこれもと背負い込まなければならなくなった学校システムのなかで、教師そのものの心も体もほとほと疲れ果て、残りの10年近くは、気力だけでエネルギーを維持するほかはない。ある者は心の病をかかえ、ある者は体の病(新たに騒音による難聴者の増大?)に見舞われる。途中で辞退となる人もこれまで幾多と見てきた。学級担任のまま定年を迎える教師は見事というほかない。

 私たち「5分間メモ」教育実践法研究会は「書くこと」をとおして子どもの心の発達の可能性を探る研究をする会なのだから、あくまでも「書くこと」をとおして現象の裏側にあるものを理解し、実践のあり方を探求する必要があろう。

 この憂える現状のなかで成果をおさめている学級もある。

 子どもたちをいち早く察知し、改善をはかる実践があらわれつつある。そこには必ず、子どもたちが発信するかすかなる信号を受信する担任の実践があった。「目と耳と心」のアンテナを張り巡らし、受け止め、感じ取っていた。お互いがお互いを認め励ましあう関係をつくることに成功していた。

 書いては読み、読んでは話し合い、話し合ってはまた書く。それは毎日、たったの5分間だけ書く時間を設定したものであったが、書かれたものを先生が読み、それをまた認め励ましていく。先生の肯定的な言動と対応がサンプリングとなって子どもたちのなかに広がっていく。

 お互いに書いたものがきめ細かな配慮のもとに紹介され、あわせて本の読み聞かせなどその他の学年および学級文化の活動も大事にする。注意・叱責は明快かつ最小限に抑え、子どもはまた素直に受け止めていく。徹底して子どもを「目と耳」で受け止めようとする姿があった。

 こうした環境のなかで、他者(教師・学級の一人ひとり)を取りこみ、少しずつ心を和ませてゆく。担任の先生から保護者にも成果が伝えられる。保護者もまたわが子の、このごろの変化に気づきはじめて、双方の会話がかみあいはじめていく。このような実践が初任者の学級にもあった。

 「5分間メモ」の実践をしている先生方のなかにその実例があらわれはじめた。

 昔は絶大なる効果をあげた一枚文集(原紙力とか紙の弾丸と言った人がいた)、それを広めたいところだが、いまやよほど慎重にやらなければ、教師は大きな痛手をこうむることになりそうだ。一枚文集に変わる方法を模索しなければならない。コピー&印刷技術の進化した今日、絶大なる方法がありそうだ。

 成果をあげている実例を紹介する前に、困難に見舞われている学級のその苦悩の実際を見てみよう。

先ず4年生編。

 ゆうと君は、おじいちゃんが担任のところに訪ねてきて「不憫でならない、引き取って面倒をみようかを考えている」という子である。父親と姉(中1)とゆうと君の3人で暮らしている。朝食を食べてこない日もある。下半身には隙間なく虫にさされたあとが残っている。

 授業中の不規則言動(それは奇声であり怒声にもなるときがある)、不規則行動(物音をたてたり教室徘徊)は絶えることなく、担任が静止をかけると「なんでオレだけ注意スンダよ」とイラつきを拡大していく。とにかく注意を引き付けておかなければ気が済まないように思われる。年配の教師を見かけるやいなやフリーズしたようになる。「5分間メモ」に書く文字をはじめ、ノートに書く文字(実際は書かないことが多い)は乱雑きわまりない。相当時間をかけて読まなければ判読不能である。それでも「5分間メモ」には4コママンガ、8コママンガを描いて心を鎮めている。完全に、心にキズ(瑕)を背負い、心のひび割れがはじまっている。

 もう一人、としまさ君は、知的能力は高く、何事にも積極的で意欲的に見える。絶えずしゃべりまくりじっとしていることはない、背も高く声も大きい。その場を仕切るのが自分であるとでもいうように「ゆうと、しずかにしろよ」と叫ぶ。それがもとになってまた教室が騒然となる。静寂になるまで教師は待つ。静寂になったところで教師が説明を始める。そこからまた不規則発言となる。「しずかにしろよ」と叫ぶ本人がもっともさわがしい。この繰り返しとなっていく。それが授業中の不規則言動を拡大していく。教務主任の姿を見かけた瞬間ゆうと君同様何事もなかったように振舞う。
 この子は、ゆうと君をからかい挑発し、もてあそぶような言動、行動があり、あたかも正当な言動で授業を中断させることも少なくない。この際立った二人に、とりまきの3人~4人の子どもたちが反応をする。

 このように書くと、子どもたちは、担任の先生のことが嫌い?と映るかもしれないが、決してそうではないのだ。休み時間になると先生の教卓の周りに集まったり、机の周りを取り囲んだりして楽しげにここでもまた金切り声をあげて騒いでいる。

森野さんは、つぎのようなことを「5分間メモ」に書いた。


①10.22<たいき君のこと> 森野 はるな
たいき君は、いつもまわりの男子になかされています。
たいき君、少しかわいそうになってきました。
でも、わたしは、たいき君に悪口をいっていません。
なぜ、ないてしまうかというと、
「デブたいきー。なき虫。たいキン」とみんなから言われている
んです。
この前なんて、たいき君が、みわさんのランドセルをさわっただけなのに、みわさんは、
「ヤダぁー!たいキンがついたーーーー!」
と言って、だれかにまわしていました。
最後は、てつ君が、たいき君の頭につけて、そして、たいキンと言ってまわしていた人は堀之内先生(担任)におこられました。
今日も、また、ないていました。

《①はじめのころは、お互いにじゃれあうようなふざけのような遊びと担任はとらえていた。そして、担任は実際場面を目撃して注意を与えた。その翌日、一日出張の日、後補充の先生のときに「5分間メモ」でこのように書いていた。たいき君をめぐる学級の問題として書いてきたはじめてのものだった。「なんかヘンだよ」をこえて、具体的事実となっていきなり出てきた。このように書く子は、この学級の宝なのだが、初任者にはわかるはずもない。》


②11.16(月)57回目 <金曜のゆうと> 森野 はるな
金曜、ゆうとは、めずらしくぼうそうしませんでした。
わたしは、とってもビックリしました。
このような ゆうとが、毎日つづけばいいと思っています。

《②ゆうと君をこのように書いた。「ぼうそう」と表現し、落ち着いた状態が続くことの願いをもっている。多くの子は「なんかへんだよ」と意識はしていても、このように書いたのはこの子がはじめてである。自覚をしはじめた瞬間である。》


③<今日のとしまさのわるいところ>
1 テストが終わっても本を読み続けていた。
2 「5分間メモ」の時に、チャイムがなったので「おわっ 
  たー」と言っていた。
3 じゅぎょう中にうるさかった。
4 「5分間メモ」の時に、上ばき(足)で、パタパタやってい 
  て、とてもうるさかった。

《③としまさ君についても、この子は両面から見ようと努めてきたが、今日はこのような結果になった。
 はるなさんは、二人をとらえながら自分自身を成長させていくはずである。》


④11.19(木)59回目 <今日のとしまさ> 森野 はるな
今日は、5分間メモの時に、M先生(後補充の先生)によび出されていました。
わたしは「なんだろう」と思いました。
「きっと、おこられているんだろうな」わたしは思いました。
すると、としまさがもどって来ました。すると、いつものように、歌ったり、ふざけたりして、5分間メモを書いていました。書いているとしまさは
「とてもしんけんな顔をしている。」
と思ったのですが…。
そのちょくぜんから歌いだしてしまいました。
そしたら、てつくんもいっしょになって歌いだしてしまいました。二人がそろうと、とてもうるさくなります。
「このクラスが、みんな静かになってくれるといいな。」
と思っています。<END>

《④ある一人二人について、継続的にさまざまな角度から多面的に観察するようなことにでもなれば、観察力を高めていくはずである。観察力は、何も自然観察には限らない。ゆうと君なりとしまさ君を「変化する観点」でとらえたとしたらどうであろうか。そのためにも「書く力」を育てなければならない。》




⑤11.19(木)59回目  石塚 なみ  こないだのつづき 
2人目はとしまさ君です。
いつもみんなのめいわくなことをして、へんなあだなでよんできたりされて、ちょっとかなしいです。
としまさにもへんなあだなをつけたいです。
いつも、奈々さんにちょっかいをして、奈々さんもかわいそうです。いつになったらやめるのかなー。
としまさのうらみをうらに書きます。
としまさ さいてー
本読みまさー
いじめだー

《(⑤はるなさんに続いて、二人目がとしまさ君について書きはじめた。一行目は、としまさ君と書いて、後半は、呼び捨てとなり、おさまらない気持ちを、裏面に大きな文字で書いていた。この程度のとらえかたでは、現状を変化させることはできないが、まずは、このように書きたくなった事実をうけとめなければならない。》




⑥11.19(木)59回目  森本 こうたろう
ぼくは、今日 船越先生が来てびっくりしたことがあります。
それは、今日、船越先生が来たらみんなは、そんなにしゃべったり立ち歩いたりはしていなかったのでびっくりしました。
でも、堀ノ内先生が熱を出したことは、すごくびっくりしました。
ぼくは今日クラブがあってすごくひさしぶりです。
速く6時間目になってほしいです。
後、雨がぜったいにふんないでほしいです。
 
《⑥これがまったくもって「5分間メモ」気分とムードで書かれている。これが自覚なしに書かせている初任者の学級の現実だ。それにしても、騒ぎまわっている子は絶対にこのようなことは書かないわけだから。学級に目を向けて書いただけまだ、ましと理解しておく必要がある。》


 この先、この学級はどのようになっていくか、予測がつかない。みんなのなかで受け入れられ、情緒を安定させていくようにできたらと願わずにはいられない。チグハグなことの多い としまさ君 がもっている潜在的な能力が、みんなのなかでよさが発揮されることを願わずにはいられない。

 それを、どのようにして自らを変えていったか。それをまわりの子たちが4年生なりに書く力を育てるような初任者になってもらいたいと願う。

 ゆうと君は、祖父母が養育するようにでもしない限りキズ口を広げる心配のある子だ。

 たいき君をめぐる問題は、諸注意止まりで、全員に気づかせる取り組みまではいたってはいない。

 もう一つ5年生の学級の実例をみてみよう。南さんは次のようなことをメモで書いてきた。


11.17(火)59回目 <   > 南  
きのうの給食のときサラダのおかわりをしました。
すると山野君が「南だもんな」と言いました。
わたしはキズつきました。
そうしたら飯森君が
「お前の体重30kgをこえただろう」と言いました。
喜多君も
「太っているのは事実だろう。何がわるいんだ」
といいました。

《このようなメモを見たときは、全てに優先して取り組まなければならない。事実確認と書き手の心も考えながら取り組まなければならない。一人でも堂々と主張する勇気があるかどうかも確かめなければならない。
とりあえずどうするか、この問題を一回限りのものにするか、全員に気づかせるものするか判断しなければならない。》

 「5分間メモ」開始直後の10回くらいまでに、対応すべき大事なことを第一集で書いておいた。ポケット版P58第8日目のところに「わたしたちの生活にはよいこともたくさんありますが、いやだなあと思うことも起きてしまいます」「5分間メモには、よいことも書きますが、いやなことも書いてよいのです」ということについて、少し詳しく記述してある。

 4年生の森野那加さんの場合は、「なんかへんだよ」という意識をもつようになって、5年生の南さんは「いやだよ体験」を書いた。いずれも言わずにいられないこととして書いた。

 5年生の南さんは、先生の常日頃のこの言葉を受け止めていた。それでこのように書いてきたのである。このようなことを書いてきた場合、その日のうちに対応しなければならない。極端にいえば国語と学級活動と道徳と時間を組み合わせて3時間でもかけてよい。大事なこととして子どもたちにこの問題に向き合わせることだ。それは教師の毅然たる姿勢を示す場面でもあるのだ。そうすることによって、ふざけた側の子にしてもいやな思いをした子にしても、その教師を新しく受け止めなおすことになる。

 人権教育の生きた教材として「学習」に持ち込むことだ。教科の進度も気になるところであろうが、このような問題を放置して教科の進度うんぬんもないのだ。学級で処理可能な一人の子の悩みを払拭してやることができないとしたら、それは教師の人権感覚が問われかねないことなのだ。差別につながるようなことはいかなるものであっても許してはならないという教師の毅然たる姿勢が何よりも優先させなければならない。

 南さんは1年生のころから、体つきのことで言われてきたと言う話を間接的に聞いた。時間をかけてほり下げて見ると、様々な問題がそのまま放置されているように思えてならない。南さんに書く力があり、担任の先生との間で何を言ってもよい安心感が広がって、何でも書きたくなるようになればと期待したい。しかし、いかんせん初任者に、その実践を求めるのは負荷が大きすぎる。

 このような状況のなか、一方では、それらに似たような状態から、自ら改善を果たした子がおり、そこからまた学ばなければならない。そのような子は、実際生活にもとづいて自分に向き合って文章を書き続け、仲間に受け止められるようになっていった。

 前年度はベテランでも苦慮する心のすさんだ学年を、新しい年度になってその学年に配置された初任者がいた。それを、うまく対応せよという要求をしても、初任者を苦しめることになりかねない。そのような初任者たちを隔靴掻痒(※)の思いで見守り続けてきたが、それがいま目の前の現状だ。

 ともすれば、手をこまねいて、ところてん式に高学年に押し上げる結果となり、高学年教師も苦慮をせまられる。そこでもまたそのまま中学校へと押し出されていくことにもなりかねない。

 初任者の学級に教務主任および教頭が授業にもかかわり成果をあげたところもある。いまや、インフルエンザ対策専門職になりかけている管理職とその周辺の先生たちは、その対応に追われているのも現実でこのような子どもたちをなんとかするのは、じつに大変だ。そのようななかではあるが「足元にヒントがある」の言葉をかみしめ、知恵を絞りださなければならない。

 さて、初任者はまわりの先生に助けられながら1年が終わる。しかし2年目以降はそうは行かない。わたしたちは、「5分間メモ」による手法で何ができるか、どのようにすればよいか。このような子どもたちの理解にとどまらず、どのような実践をすることが大事なのか、まもなく明らかにされる。

 毎日か一日おきに全員が「5分間メモ」で書くところであれば、心にキズ(瑕)を受けている子を包み込んでいくような学級経営・学級づくりは、年齢や経験年数に関係なく取り組みやすくなるはずである。

 さきに教務主任や教頭がかかわることによっての成果についてふれたが、それも大きい。さらに、学級担任の努力と子どもたちが学級の友だちをお互いに認め励ましあう関係をつくりあげることによって改善し心を和らげさせることくらいはできるし、尊いことを学ぶことにもなるはずである。
(※)隔靴掻痒(かっかそうよう)とは、靴の上からかゆいところをかくように、もどかしいこと、はがゆいこと。




2009年 10月30日のベテラン教師、野村先生の実践報告の中に、次のような一例があった。


●6月19日(金)〈37〉       4年 若松 しょう子
今日そうじの時に富山君がわたしのお父さんの事をはげといってきました。
わたしが
「そういうこと言わないで。」
といったら
「それいがいに何があるんだよ。」
といいました。
作文でも書いたけどかなしかったです。

《「5分間メモ」にこのように書いてきたという。人権作文にするようにすすめた日のコピーを保存していないうえに、ファイルに綴じたものにもいれなかったようだ。》

 それが、以下のような文章になったというのだが、5分といえ継続的に書かせることの成果があったにしても、この子は、もともと書く力のあった子なのか、担任のどのようなはたらきかけがあってこのようになったのか?という質問があり、現在実践をまとめているところである。また、これを読みあって授業も行われたようだ。


「すくわれたわたし」  4年 若松 しょう子

1 わたしは、3年生の時、ある男の子たちにいじわるされた
  事がありました。
2 でも、それはわたしの事ではありませんでした。両親のことで
  す。
3 その事がわたしにとって一番かなしい事でした。
4 そのせいでわたしは
5 「学校なんか行きたくない。」
6 と言う言葉を言ってしまいました。
7 でも、今では全ぜん、だいじょうぶです。
8 わたしが元気になれたのは家族そして、もうこの小学校にはい
  ないけれど、本澤さとし先生のおかげです。
9 わたしがいじめられた時、それは3年生のはじめの事でした。
10 ある日のじゅぎょうさんかんの時に両親二人で見に来てくれま
  した。
11 わたしが
12 「学校なんか行きたくない。」
13 と言い出したのは、その次の日からでした。
14 学校に行くといつもの男の子たちが走って来ました。
15 「お前の親わかったぞ。あのぶたの洋服のデブイやつと、ハゲ
   のおっさんだろ。」
16 いつもだったらむかつくところが、そのしゅんかんぱっとか
  なしい気持ちになりました。
17 わたしは、そのことを父と母にはとても伝えられませんでした。
18 だってかなしむと思ったし、父と母のかなしむ顔なんて見てい
  られません。
19 その後、わたしは一人でくるしみどんどん心がおかしくなって
  いきました。
20 両親は
21 「何かさいきんしょう子がおかしくなってない。」
22 と言う会話がふえました。
23 次の日、父と母が
24 「ねえ、しょう子、学校で何かあったの。」
25 「えっ。」
26 「ただ聞いているだけだよ。」
27 「うん。」
28 わたしはいきなり泣きはじめました。
29 「学校でパパとママの悪口言われたの。」
30 でもわたしは1回言われただけでは、こんなくるしみません。
31 「何て言われたの。」
32 「ママのことデブイって言ったり、パパのことハゲのおっさ
   んって言われたりしたの。」
33 すると父と母は
34 「そっか。でもべつにいいんだよ。全ぜん気にしてないよ。そ
   んな子、相手にしているとつかれるよ。」
35 その一言でほっとしました。
36 「でも。」
37 わたしが言うと
38 「だいじょうぶ。本澤先生が知ってるから。」
39 それから色々な人にたすけてもらって元気になれました。



 6月19日(金)〈37〉回目に書いた 4年の 若松しょう子さんのメモは、3文のメモでしかない。

 野村先生は、それをメモのままの実態把握にとどめず、作文にするように要求した。子どももそれに応じて書いた。教師と子どものこのような関係が重要なことは言うまでもない。メモの段階で教師が先回り的に対応しなければならないときもあろうが、このように一度、本人に戻して文章としてまとめさせる。それは、学級のみんなに読まれるのだという意識からさらに自覚をもって書く。そのような姿勢を育てることだ。

 それを読んだ子どもたちは次のようなコメントを、また「5分間メモ」として書く。

(※→ ★★へ)


 書き手の 若松しょう子さん にとって、書いてよかったと思う一瞬が起こる。それを読んだ学級の子たちもまた、書いてもらってよかったと思う。こうして書くことって大事なことなのだと実感する。このようなことを積み重ねていく学級のなかで、はじめて、「書きコトバ」で書くことの意味や意義が広がる。習得の欲求が高まり、動機がつくり上げられていく。それを繰り返し積み上げていく学級が、ふりかかる諸問題を解決する学級へと成長していく。書くことは、遠回りのようであるが、ショートカット的な作業であるというのは、このことである。

 事柄が大きくなる前に、以下に示すようなものを常日頃から読み合う学級の言語環境、学習環境、人間関係を構築しておくことであろう。そうした場合、先の例のようなことが発生しても、目の前の問題を解決する能力を高めることになるであろう。よく「問題解決学習」などといわれるが、それは教科学習のなかにのみあるのではなく日常生活のなかに生き生きとした教材になりうるものがたくさんある。だから、生活の諸問題のなかからも教材化する力を教師は身につけなければならない。そのための「5分間メモ」教育実践法研究会でもある。

2007年 初任者の学級での実例を見てみよう。


おかあさん   3年 みのる
おかあさん、おつかれさま。つかれたでしょ。
はやくあがって。
あとはぼくがそうじをしてあげる。
コーヒーいれたよ。パンは二枚やいたよ。
おかあさんは、おとなだから、ぼくが、心をこめてつくったよ。
食べたら、かたをたたいてあげる。


みのる君へ  3年  Mくん
みのる君のお母さんは、仕事で忙しそうだけど、がんばってね。
ぼくのおかあさんも、朝5時に仕事にでかけて夜7時に帰ってきます。
お父さんもいっしょです。
でも、たまあにもっとおそくなります。
でも、ぼくはさびしくはありません。
ぼくには、おにいちゃんがいるからです。
ぼくは、さいきん、おかあさんの手伝いをしていません。
前はいつも皿洗いや、みのるくんみたいに手伝いをやってました。
でも、ぼくは、しのぶくんの詩を読んで、おかあさんに手伝う気になりました。
ありがとうございました。


みのる君へ  3年  Oくん
みのる君のお母さんはパーマ屋さんだったんだね。
あとは、「ぼくがそうじしてあげる」というところが思いやりのある子だと思いました。
パーマ屋はかみの毛のあとしまつがあるからそうじがたいへんでしょう。
「あとコーヒー入れたよ。」
「パンは二枚焼いたよ。」というところが、やさしくていいと思ったよ。
「食べたらかたをたたいてあげる」というところが、
おかあさんがつかれていて、かたたたきをしてあげると、とてもよろこんでくれるよね。
ぼくもお母さんにかたたきやかたもみをよくしています。
みのる君は、たのまれないでやるのがすごいと思いました。
ぼくはお母さんにたのまれてやっています。
ぼくもみのる君みたいに自分から、かたたたきやかたもみをやってあげたいと思います。
ぼくも手伝いはやっていますが、「やって」と言われると、ぶちぶち言っています。
ぼくとみのる君を比べると、すごいさがありそうです。
ぼくはみのる君をみならいます。
だからみのる君もがんばってください。
いいことを教えてくれてありがとうございました。


 子どもたちの意識に密着しているものであれば、それはほかの学級のものであってもよい。ある一人が書いたものをもとにして読みあって、互いに相手を自分の中に取り込んでいく。自分の生活と重ね合わせて感想を書くようにして交流を深めていく。共感的な受け止め方を広げていく。心にキズ(瑕)やヒビ(皹)がなければ、必ず、MくんやOくんのような内容で書くことができるようになる。
 わたしたちが真に求めなければならないのは、じつに難しいことなのであるが、心にキズ(瑕)を負い、ヒビ(皹)割れをはじめた子どもたちこそ、文章を書くようにしなければならないということである。

 ここでの最後に、「書くことについて」のところで紹介した一文を再度引用し紹介しておこう。

 スティーヴンスンにとっては、「あらゆる不安から解放してくれる特効薬は、いつでも書くことそのものだ。…死に直面しても己を信じ、愛を信じ、言葉の力を信じて、書き続けることによって生き続けようとした」といわれている。


【補足】   道徳の授業へ!
確信や自信など全くない状態の取り組みでした。
が、途中私はまたもや涙、何人かの子も涙・・・。
とってもしっとりした、いい時間を持つことができました。

(※→★★)

何人かの5メモを1回目で発表してもらった子
………………………………………………………………………………


● N子 「学校なんか行きたくない!」  
わたしもこの言葉を何度も言ったことがあります。
この子は、母や父がへんなことを言われてかわいそうだと思います。
ともだちのお母さんお父さんをバカにしてたのしいのか、おもしろいのかそんなことをいいたくなります。
この子はかなしくて、つらくて、がまんできないほどくやしかったのだと思います。
「デブイやつとハゲのおっさん、こんなことをよくいえるなあ。」と思いました。
わたしだったら、ないてないて、きょうしつをとびでてしまいます。



● S子 わたしはこの作文を読んで感じたことがあります。
いじめは、その人だけではなく、その両親から始まる事もあるという事です。
両親のことを言われたら、わたしもがくぜんとします。
でも、その1の最後の文に『本澤先生のおかげ』と書いてあったのでどういうことをやったのか知りたいです。



●K太郎  ひどい       
ぼくは、そんなひどい男の子はいないと思っていました。
だけどこの話を聞いて信じたくないけど信じられずにはいられません。



●K太 よんで、とてもかなしいです。      
お父さんとお母さんにむかってそんなことを言われたらとてもかなしいです。
ぼくだとしたら、ものすごくむかついて、なぐっちゃうかもしれません。・・・(ここまで5分間)
(このはなしを聞いて、いじめはもうやりたくありません。
いじめられた人だけでなく親もやなきもちになるんだなと思いました。)
授業後につけたされました。やっていた子かどうかはまだ確認していません。



●H子 この作文を読んで
「この子、かわいそうだな。この子はどんだけこの両親へのいじめにたえたのかな。」と思いました。
わたしも1年の時、5人の男の子にいじめられていました。
「お前の家には、ゲームねえんだろ。」
と言われたり、学童にお母さんがむかえに行くと、お母さんに「なんでゲームないの。ゲーム楽しいぜ!」と言われたりしたのを思い出すととても悲しくなりました。



●H子 1、道徳資料を読んで
わたしは悲しくなりました。    
わたしが、もし、両親の事をそう言われたら、わたしも「学校行きたくない。」と思うかもしれません。
「どうしてそんなことを言えるんだ自分の両親が言われてしまったらたえられるの!」と思いました。
平気でそんなことを言える男子がこの中にいたとしたら、いかり、悲しみがわいてきます。



●H子 2、作文を読んで、最初、わたしは、悲しくなりました。
平気で、そんな事言えるのが、信じられません。
そう思ったしゅんかんに、母の言葉がうかんできました。
「もし、自分が、ふざけて言った言葉が1人の人の心をうばうかもしれないんだよ。
だから、自分(ここまで5分)が言われたくない言葉は言ってはいけないんだ。」とその言葉がうかんだしゅんかんに男の子のつめたい言葉が心をこおらせました。
でも「その3」を読んで、心のつめたい氷がいっきにとけてあったかくなりました。
「その女の子がすくわれた。」と書いてあってとてもうれしかった


………………………………………………………………………………


その後・・・みんなで、拍手で終わりました。
すると「先生 今日は 給食 輪になって食べたい!」と言って来てくれました。

真ん中で配膳してみんなで一つの輪になって食べました。

すると誰かから「あのへこみをもっと中にするとハートマークになるね!」と次々に心温まるふんわりタイムになり大感激した一日でした。

30年間で1番の道徳でした。

でもまだまだ何があってもおかしくないうちのクラスです。

しっかりと5分間メモで観察していきたいと思います。



K氏の感想  2009.11.20
《確信や自信など全くない状態の取り組みでした。が途中私はま
 たもや涙、何人かの子も涙・・・
 とってもしっとりした いい時間を持つことができました。
 その後・・・みんなで、拍手で終わりました。すると「先生今 
 日は給食輪になって食べたい!」と言って来てくれました。真
 ん中で配膳してみんなで一つの輪になって食べました。すると誰
 かから、「あのへこみをもっと中にするとハートマークになる
 ね!」と次々に心温まるふんわりタイムになり大感激した一日で
 した。》


この指導のなかで明確にされたことは、人の痛みを分かち合い、共鳴共感できる人間に育てること。決して、問題発言をした子を「晒し者」にして、集団で「詰問」するというスタイルの名を借りた「集団いじめ」ではないということ。このことが、野村学級においてFさんの「作文」を読み合い・話し合い・書きあうなかで、「子どもの心が一つになっていく」過程が見え、そのなかであらたなる真実と向き合う子ども同士の結束とその雰囲気が感じられ、先生の努力が伝わってくるものでした。
子どもが書いた「5分間メモ」からそれを感じました。どれもこれもが私の心を揺さぶるものでした。
特にH子さんの「5分間メモ」の中にある
「・・・そんな事言えるのが、信じられません。そう思ったしゅんかんに、母の言葉がうかんできました。『もし、自分が、ふざけて言った言葉が1人の人の心をうばうかもしれないんだよ。だから、自分(ここまで5分)が言われたくない言葉は言ってはいけないんだ。』とその言葉がうかんだしゅんかんに男の子のつめたい言葉が心をこおらせました。・・・・」
「ふざけて言った言葉が人の心をうばうかもしれない」ということと、自分が言われたくない言葉は言ってはいけない」ということを、事実を通して学び取っていくということです。
そうした観点から見れば、今回の指導は所期の目的が達せられたと思います。
この指導を行ったことで、当事者であるI君やFさんがどのようなことを「5分間メモ」に書いてきたのでしょうか。特にI君について、自分の「したこと」に思い馳せ、2度と同じようなことを繰り返さない心が芽生えて欲しいと願っています。
今後も注意深く、温かな眼差しで見守り、その後の言動に好ましい変化が見られたならば、認め励ます言葉かけをして行って欲しいと思います。野村先生ならそのことは、十分に心得ていることでしょうが。
今回のこの実践を是非ともまとめていただきたいと思います。
私が11月5日に送った添付ファイル(このメモを読んで・・・)を参考にされ、野村先生がご自分の判断で行われたことについて、敬意を表します。
仮に、どんな指導案や設計図があったとしても、目の前にいる学級の子どもたちの実態を十分把握したうえで咀嚼し、具体化するための指導の加減や手順を考えなければなりません。そして、頃合を見計らって授業(学習指導)の組織化をしていかなければなりません。
こうした視点から見た場合に、野村先生が行った授業(学習指導)は、
「その前に、I君への指導を入れつつ、道徳で使わせてもらう確
 認をF子さんにしつつ、今日を迎えました。インフルエンザ流行
 とその後の風邪で5分間メモをこよなく愛す何人かが入れ替わり
 でお休みでした。落ち着いた今週の予定に道徳のお知らせをして
 おきました」
と、配慮に基づいた事前の指導があり、実に見事であったと思います。
さすがはベテラン教師の力量を垣間見た思いがしました。野村先生が指摘している
「・・・でもまだまだ何があってもおかしくないうちのクラスで
 す。しっかりと5分間メモで観察していきたいと思います。」
このことは、今後の課題であり、時間がかかるものでしょう。それでも、「しっかりと5分間メモで観察」をしていくことを、ことのほか大事にしていく決意の程が感じられ、嬉しく思います。
子どもの心を掴むためには教師自身の真摯な態度とともに「5分間メモ」を通して動的に観察(子どもの内面を知る)し続けることが、「急がば回れ」となるでしょう。
初任者とともに実践され姿に頭が下がります。あらためて、心から敬意を表します。
                              

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